クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

読書の習慣と感想文

先日、NHKのネットニュースを見ていたら読書感想文コンクールで生成AIを使ったものが10以上発覚したと報道されていた。

まあ、使うだろうね。特に無理やりコンクールに出すから本読んで書けと強制されたら。

 

私も小学生の頃、森鷗外山椒大夫』の感想文を書けと指示されて大いに苦悩した記憶がある。後に知るのだが、『山椒大夫』の本当のテーマは「仏のご慈悲」らしい。ってそんなもん小学生にわかるわけがないのだ。大人が読んでもわかると思えない。

そりゃ生成AIなんて便利なものがあれば使う。

試しに『アンネの日記』の感想文を400字以内で書いてくれとGoogleのGenemiに注文したら、驚くほどのものはできないながらも、先生に怒られないくらいのものはできた。

相方曰く、

「感想文は本の抜粋から始めて、読み手を引き付けておいてから、自分の体験と本の内容を結び付けるとコンクールで評価される」

らしい。何度か賞をもらった相方は「大人って、こう書けば感心するんだよね」ということをよくわきまえた嫌な子どもだったようだ。

この方式なら生成AIで原型を作っておいて、自分の体験を多少混ぜるだけで、良さげなものができそう。というかこうなると読書感想文でコンクールをする意義に疑問を感じてしまう。

現在、私はわりと本を読む。

ただ、別に感想文を書きたいわけでなく好奇心の赴くままに読んでいるだけだ。今はジェフリー・ウェスト『スケール』を苦労して読んでいる。

これは気が向いたら感想を書いてみよう。

10年前の登山写真

4月に入ってバタバタしている。

忙しいのは悪いことではない。暇で暇で人生を浪費するより余程いいとも言える。

しかし、多少加減してほしいのも人情で、おそらくゴールデンウィークも仕事だろうと考えると少々うんざりする。昨日に続き、現実逃避で過去の写真を眺めている。

 

昨日載せたのは11年前で、今日のはちょうど10年前。

ゴールデンウィークは残雪の奥穂高岳に登った。後で体験した強度の日焼けを除けばパーフェクトな登山旅となった。

7月には悪沢岳赤石岳を縦走。

それぞれの山でそれぞれ新しい人と出会って、また一緒に山に行って。不思議な人の縁ができた年だった。

9月は雲ノ平へ。

写真を振り返ると春夏秋冬、狂ったように山に行っている。

今から思うと夢中になっていたのはこの時期かもしれない。土日もよく仕事をしていたのにどうやって時間を捻出していたのかは謎だ。

また山に行きたい気持ちが少しムクムクしてきた。

気力の源泉

週末、原因不明のだるさと胃のムカつきに襲われてダウンした。

「もう年だねぇ」と言えばその通りなのだが、年明けからガタガタである。何より気力が湧いて来ず、年始の誓いはどこへやらだ。

こんな時にどうするか。

まずは過去の元気だった時期の写真でも見て、ワクワクを取り戻そう。

 

振り返ると2013年あたりから山の仲間が増えて一気に楽しくなった。

写真は八ヶ岳。この時は夜にすき焼きを食べて初対面のおじさんたち交えて楽しくおしゃべり。

交通事故に遭いながら、アイアンマンレースに出たおじさんの話はぶっ飛んだ。

同じ年のゴールデンウィーク鳳凰三山へ。

この時はバス停でたまたま一緒になった3人で翌日頂上へ。1人の方がなんと写真をスライドにして送ってくれた。

9月の連休は早月尾根から剱岳へ。

これも3人で行き、早月小屋でビールを飲み、剱沢小屋でビールを飲み、黒四ダムでもビールを飲んで帰った楽しい登山。

あの頃の仲間は今何しているだろう。

このうちの1人と5月久しぶりに会ってみることにしている。

桜が咲いたので玉川上水沿いを散歩した

土曜日は桜の開花宣言を受けて玉川上水沿いをぶらぶらした。

日当たりの良いところは咲いていたものの、まだ蕾が多く。満開とまで行かない。ただ、ウグイスが下手ながら鳴き始め、いよいよ春本番という感じだ。

玉川上水は江戸時代に造られた人工河川で、当時から世界一の人口を誇る江戸への上水道にあたる。江戸っ子の自慢はこの「水道」の水を使うことで、十返舎一九東海道中膝栗毛』でも冒頭に「千代田城の金鯱を睨み、水道の産湯に浸かったんだ」と啖呵を切るシーンがある。

あと玉川上水と言えば太宰治が入水したところとして知られ、三鷹あたりには太宰治ゆかりと付くものがいくつかある。今なら産湯になる程度しか水は流れていないけど、大正くらいまでは滔々と流れていたのだろう。

江戸っ子が産湯にする水に浸かって死なれるのは迷惑な気もする。

 

それにしても3月の末から急に暑くなった。

この日はアイスがたくさん売れただろうね。

実力と成功の確率

最近どうもついてないなあと思う。

2月にぶっ倒れ、3月もバタバタ忙しいまま終わりそうだ。忙しくて充実していればいいものの、何か全力で遊ぶほどの気力が満ちていない。

私の場合、数年に1度こういう状態に陥るのだが、まあ気長に運気上昇を待つしかない。

 

ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまで偶然です』を読む。

「運」とか「奇跡」というものについて考察した本だ。たまたま会った人と誕生日が同じだったら人は縁と考える。ただ、40人のグループで1組でも同じ誕生日のペアが生まれる確率は、なんと90%を超えるという。

偶然と呼ばれるものの中には、かなり的の大きな偶然がある。つまり、奇跡のように思えても、実はかなりの割合で起きることが混じっているということが書かれている。

野村克也が「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と喝破した。

人は心情として勝てば実力と思いたいし、負ければ運が悪かったと思いたい。この言葉はその甘えを戒めて反省を促す名言と言える。

しかしながら、物事はほとんどの場合、100%の必然性はない。明日の天気が晴れるかも、今週末桜が咲くかも、有名店のディナーが美味しいかも100%ということはなく、せいぜい確率が高いくらいのことしか言えないのだ。すなわち、どちらの方が確率が高いのかを適当に見積もることでわれわれは日々を暮らしている。

そう思うと負けたり失敗して実力がないと落ち込むのではなく、次は成功する確率を上げよう(失敗する確率を下げる努力をしよう)くらいに考えるのがいいのかもしれない。

何しろ明日生きている確率だって、われわれは正確に見積もれないのだ。

失敗の本質を感じる

仕事で失敗した。

まあ、呆れるほどくだらない凡ミスなので、周囲も呆れるくらいで済んだのだが、失敗した本人としては少々嫌である。これが豪快な失敗なら武勇伝の一つにもなろうけど、恐々歩いていてコケるような格好の悪さを感じるのだ。

こんなことを書くくらいなので、それほど落ち込んでいるわけではないし、ミスで落ち込まないのが私の長所と言える。

 

かつていた部署では凡ミスに対してクドクドと説教をしたがる上司がいた。失敗しても落ち込まないタチなのが気に障るのか、クドクドが余計長くなる。

しかし、私が思うに失敗する作業というのはどんなに気を付けていても失敗する。注意喚起をすればいいというのは管理者の責任逃れみたいなもので、「私は注意したけどこいつが間違ったんです」という言い訳づくりに過ぎない。クドクドの説教を聞きつつこの上司の内面が透けて見えて心底嫌になったのを覚えている。

失敗の本質は失敗する可能性のあることを行うことである。つまり失敗の可能性があるやり方を続けていることに問題があるのだ。

従事する人間が注意したとて確率が減るに過ぎない。いつかまた起きる。

失敗の本質を考えていかなければ進歩はないし、失敗するから進歩があると私は思っている。

勝負の人となるには

2月にぶっ倒れてからなんとなく気合いが入らず今日に至っている。

これじゃ良くないと思いつつも、気合いを入れてまた倒れたらと考えてしまう。今は気合い充電中。そんな状態なのだ。

 

伊藤礼『パチリの人』を読む。

「パチリ」は碁石を打つ擬音で、囲碁にまつわるエッセイ本で、伊藤礼さんのふわふわとした文体で書かれている。

パチリの人

囲碁というのは私も簡単なルールくらいしか知らない。白と黒の碁石だけで攻めと守りとか生きた、死んだとか言ってもよくわからないのだ。そもそもあの茫漠とした広い碁盤にどう打てばいいのか皆目見当がつかない。

筆者はその囲碁にどっぷりハマり、文壇仲間で腕を磨いて中国まで親善旅行として指しに出かける。なんでも文壇名人戦というのもあって、三連覇したらしい。

しかし、勝って喜び、負けて落ち込み、それでもまた指し。プロでない以上は時間の浪費のようにも思えるわけだが、金も生活もかかっていないからこそ純粋な勝負と言えるのかもしれない。

ふわふわとした文体ながら、指す時は真剣勝負だったのだろう。私もそろそろ真剣勝負で気合を入れ直した方がいいかもしれない。