クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

笑いの風

「まったく融通の効かん上司やなぁ」

友人がぼやいた。

彼女が一緒にマラソン大会へ出ようと誘ってくれたが、私には日程的に難しかった。いや正確には難しくない。繁忙期は過ぎているのだが、上司は何かあるかもしれないという謎の理由で「いいとは言えない」などと言って渋るのだ。

突然、彼女は「その上司太ってるん?」という質問を投げてきた。「まあ、立派なデブだね」と私は答えた。

「『いい加減BODYのくせにつべこべ言うなぁ』って言いやりたい!」

私は思わずぷっと吹き出してしまった。

彼女は私の中で有数の「面白い人」である。関東に来て数年経つが、ずっと関西弁が抜けない生粋の関西っ子だ。

時々会話の中で放つ「毒」もまるで料理に巧みに効かせた山椒のようだ。悪口が次の瞬間に笑いに変わることも珍しくない。

 

「笑い」はそれだけを一生かかって研究する価値があるし、宇宙創成の追究と同じくらい奥が深いと思う。関西はお笑いの中心地とされるが、学校でも商店街でも芸人が歩いているように感じることがある。まさに星の数ほどの笑いの伝道師たちがいる。

 

化政時代に式亭三馬によって『浮世床』が書かれたように、床屋などは現代でも滑稽本の材料になるだろう。

床屋の主人と客の会話。

主「調子はどうです?」

客「どうもこうもあらへんわ」

主「年末は忙しいん?もう仕事も終わってるんでっしゃろ」

客「仕事は終わってるんやけどな。家の掃除やらせなあかん。床屋へ逃げようと思ったら、嫁からその後蛍光灯買いに行けやと」

主「そら大変ですねぇ!」

客「『蛍光灯買うのに金くれ』って言ったら『それくらい自分で出せ』やて。会社でもペコペコ。家でもペコペコ。ペコペコ-バッタや」

私は吹き出してしまった。この床屋ではこのような会話が延々展開されている。

 

喜怒哀楽のうち、笑いに変換できるのは「怒」や「哀」であることが多い。笑いの達人たちはこれらのネガティブなカードを「喜」のカードへすり替える手練れのマジシャンだ。

マジックにはテクニックがつきもので、巧拙がある。巧拙はもちろん重要だが、笑いにはもっと大きな要素がある気がする。そして、それが関西の笑いと東京の笑いには決定的な違いを生んでいるような気がするのだが。

 

冒頭の友人と日帰りで丹沢山を縦走した帰りのことである。大倉バス停は人でごった返しており、バスは立ち乗りにならざるを得なくなった。さほど長い時間ではないが、長距離の縦走だったこともあり私も彼女も疲れていた。

前に座った一人の学生も疲れているのだろう。うとうとし始めた。ところが、隣の先輩(と思われる)は話をしたくて仕方ないらしい。

先輩「自動車メーカーでマツダであるだろ。マツダは創業者が松田さんだからって一般的に言われるんだけど、本当は違うんだって」

後輩「へー」

先輩「ゾロアスター教の何からしいんだ。何か知らないけど」

私は心の中で「ゾロアスター教の何なんだ!」とツッコミを入れた。

バスを下りたところで、友人が口を開いた。

「あの後輩めっちゃいい子なんやろな。眠いのに先輩に相槌打って。先輩!寝かせたれよって思ったけど」

全く同感だ。

「そして、ゾロアスター教の何なんだ!って。肝心なとこ知らんのかい!」

二人で大笑いした。そして気になった「マツダ」の語源をGoogleで調べた。

 

笑いにおいて最も重要な要素。それは人への興味だ。人間というものへの興味とでも言おうか。

この生粋関西人の友人は他人の会話をよく拾う。そして、同じく関西人の私と答え合わせのようにその言葉を告げ合う。

 

東京を含む関東圏と関西圏の大きな違いは人に対する関心の度合いである。駅や繁華街で騒ぐ人がいれば、東京では可能な限り関わらないようにする。これは東京出身者がそうというわけでなく、私もそうだ。野次馬的な態度ははしたないと感じてしまう。世界的大都市では他人に注意し過ぎると疲れてしまうというのもあるだろう。

関西は(と大きく括るのは些か乱暴だが)騒いでいる人が面白いことを言っていそうなら、聞き耳くらいは立てるだろう。そして、学校や職場での話のネタにでもしようかと考える。中には何があったか隣の見知らぬ人に尋ねる人もいたり、騒ぎの当事者に「どないしてん?」と尋ねてみる人も出るかもしれない。

実際に私が体験した中では、居酒屋で隣のサラリーマンに「これ何食べてるんですか?」と尋ねたら、やけにびっくりされたことがある。その料理が美味しそうに見え、メニューから見つからなかったために訊いただけだ。しかし他人との世界に見えない壁を作っている彼には突然見知らぬ者が自宅に上がってきたような感覚に襲われただろう。その驚いた顔が忘れられない。

 

落語「そこつ長屋」では行き倒れをわざわざ野次馬が見に行くところから話が始まる。人混みがあればそれをかき分けて見に行く好奇心が笑いの発端となる。

落語は1人の演者が複数の人を演じるが、終始1人を演じることはない。1人を演じるのでは滑稽ではあっても笑いを起こすところまでたどり着けないのだ。そして噺の登場人物が他者を寄せ付けないようではストーリーは進展しない。何かしらの好奇心が行動の元となっており、大抵が行き過ぎた好奇心によって騒動が起き、劇場での笑いへと昇華される。

 

笑いの風は、「センス」を持った人の間でしか起きない。