クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

『間違う力』

 

間違う力 (角川新書)

間違う力 (角川新書)

 

 駅などで待ち合わせする前に少し時間があると、本屋による。小さい書店に多い本はビジネス本、自己啓発本、ミステリー、時代小説などだろう。なんとなくタイトルを眺めて面白そうな本は裏の説明を読んでみる。

自己啓発本などは苦手だ。

以前、某外食企業の社長が書いた本をもらって読んだ。「野望を持たなければならない」「手抜きをするな」「努力は必ず実を結ぶ」といった内容が延々書き連なっており、読んでいると自分の至らない点、怠けていることを糾弾されているような気になった。こういう正座でもして読まないといけない本は敬遠するようになっている。

新書では『〇〇力』という本がはやりである。これも「これをやれば〇〇力がつきます」みたいな内容で苦手である。読んでおいて実践しないと「いつやるんですか?今でしょ!」という言葉が天から降ってきそうだ。

力シリーズでは姜尚中の『悩む力』がヒットしたあたりからたくさん出てきたような気がするが、これも敬遠したくなるタイトルだ。(『悩む力』は読者を叱りつけるようなことはなく、悩むことを肯定的に捉えている内容です。これは良い本なのでお薦めします)

そんな中で、Amazonのおすすめの中に高野秀行さんの『間違う力』という本が入っていた。

間違う?これは一体何だ?間違い方と教えるのか?

新書なんかは正しい方法を教える本が多く、間違ったことを前面に押し出しているなんてない。しかし書いているのは高野さんである。正しいことを強制される本はうんざりだが、間違っていると宣言されていると読む方は楽である。何しろ筆者は間違っているのだから。私はボタンをクリックした。

 

高野さんの本は何冊も読んでいる。『幻獣ムベンベを追え』『アヘン王国潜入記』『世にも奇妙はマラソン大会』『謎の独立国家ソマリランド』他。人のあまり行かない地域、ジャングルからゲリラ勢力地域、無政府地域、へのこのこ出かける作家だ。

「のこのこ」というと言うと失礼な感じもするが、私の中で高野さんを擬音で表現すると「のこのこ」となってしまう。飄々と危険地帯に入り、現地の人と仲良くなり、ほぼ現地人となってしまう。面白いと思ったらブレーキの効かない人なのだ。他の追随を許さないというより、他が追随しないと言っていいだろう。

こんな風に言うと情熱もなくふらふらと浮遊しているようだが、とんでもない情熱の持ち主である。国際的に国家として認定されてない国やゲリラのテリトリーに入りこんだり、国境と突破したりなどなかなかできることではない。事前にコネクションをつけ、現地語を学び、意外と用意周到である。しかし、毎度のように用意周到を上回る事態や高野さん自身が用意周到を巴投げにすることがあり、深刻な顔をして読み続けるこちらが痛い目に遭う。

大抵は用意周到な高野さんだが、時折準備もせずにどんどん突き進むこともある。

『世にも奇妙なマラソン大会』などはその典型だ。「私には間違う力があるという」という出だしから始まるこの本も傑作である。酔っぱらった状態で、ノリでサハラマラソンの主催者にメールを打って参加してしまう。きっかけは「ただ身体を動かしたい」という理由だけで。

「高野さん、それ間違いだよ」と思っていても容赦しない。ぐいぐい進む。というか何があっても痛い目に遭うのは本人なのだが、読んでいる方がドキドキする。「作者は生きてこの本を書いたわけだし、まあ大丈夫だろう」と油断しているとやっぱりひどい目に遭ってしまう。ただ、読者はどうなってるんだと思うが本人はいたって真面目なのだ。

 

本書はそういった過去の失敗談を含めて作者が行動方針を10個挙げて語ったものである。

果たして方針と言えるのかどうかわからないものまである。ただ、端っから「間違っている」と言っている本書を読み進めると、自分が間違っているのか高野さんが間違っているのかわからなくなっていく。そもそも「間違う」とは何かわからなくなる。冒頭で「嘘つきのクレタ人」のパラドックスの例を引いているが、自ら間違っているという高野さんは、本当のところ自分が間違っていることがわからない。しかし、第三者たる読者だって結局のところわからないのだ。

 

「人生に正解はない」と言ってしまえば簡単だが、体現することは難しい。ほとんどの人は自分の人生を全て正解だったと言い切れないのではないか。

高野さんは「間違う」という表現を借りつつ「正しい」という価値観を対して婉曲に揺さぶりをかけている。一般的に「正しい」とは所詮メジャー意見の集合体であり、ただ大多数が正しいと言っていることの集合体に過ぎない。「常識」は'common scence'と訳されるが、共有できない概念は排斥したくなるので、「間違い」という言葉で表現されるのではないだろうか。

本書の言葉は「ちゃんとする」「しっかりする」という言葉を浴び続けて疲れた心を優しく包む福音のように感じた。