明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
と、とりあえず書いてみた。年賀状を書くこともないので、年始の挨拶で口にするばかりだが、何度言っても違和感がある。祖父が、一休宗純の「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という言葉を口ずさんでいたということもあり、定型句である「おめでとうございます」が素直に言えず、「今年もよろしくお願いします」ともごもごと済ませてしまう。
これまで山と死について時折思いついて書きつけたものの、「死」について真剣に向き合えていないのが現状だ。そんな複雑な思いも相まって「おめでとうございます」と素直に言えないのかもしれない。
有名なスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチで
“If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”(その日を自分の最後の日と思って生きていたら、いつかそのことがまさに正しいとわかる)
という言葉が出てきた。直訳するとわかりにくいが、今日が最後の日と思って後悔のないように生きよということだろう。
ではもし今日が最後となったらどのくらいの人が心残りなく死ねるだろうか。エネルギーに満ち溢れた人ほどいろいろなことをやっているので、死ぬときは未練なく死ぬかと思えばそうではない。栄華を極め、エネルギーが余っている人ほど余計に心残りができやすい。葛飾北斎が死の直前に「あと10年、いやあと5年生かしてくれれば真の絵描きになれただろうに」とつぶやいたと言われる。北斎は当時としては超高齢の80歳。天寿を全うしたと言ってもよいところだが、バイタリティーのあまり心残りが生じたというところだろう。死ぬまで追い求めるものがあるのは不幸なこととも言えるし、極めて幸福なこととも言える。
冬山に登ることを登らない人に話すと、「死んだらどーする!?」という趣旨の質問を受けることがある。登る人からすると「道を歩いていて車にはねられたらどーする!?」とか「酒を飲んで脳卒中になったらどーする!?」という質問と同等に感じられるのだが、質問する側にとってはそういうことではないらしい。そして最後に「山好きな人は山で死んだら本望でしょうね」と無理やり納得を付けることになる。
ただ、今度は登る側として納得できない。好きなことを死ぬのは誰かに殺されたりするより余程良くても、そりゃもうちょっと美味いものも食べたいし、行きたいところもまだまだある。何しろ山に行くくらい元気なのだ。
欲があるうちはどうしても心残りが出来る。しかし、欲が少な過ぎると人生がつまらなくなる。欲のアクセルとブレーキ操作が難しい。
落語「地獄八景」の出だし。
「あんたの心残りは若い嫁さんを残して死んだことか?」
「そんなことやおまへん。私の心残りは戸棚にしまった半身の鯖。どうせ死ぬんやったらみな食うて死んだらよかった」
これくらいサッパリした心残りで死ねたら一番いいのかもしれない。