今年の夏は北海道に行こうと思っていたら、職場の何人かも行くという。去年まではコロナということで我慢していたのかもしれない。
ただ、1人予約までしたのに、台風が来ているからと言ってキャンセルしてしまった人がいる。行きはどう考えても大丈夫そうだから、どうしたのかと訝しんでいたら、「台風で帰れなくなるかもしれない」からだと言う。帰れなかったら仕方ないから延泊すればいいじゃないかと思うわけだが、仕事に穴をあけるのが心配なのだそうだ。
別に仕事がすなわち人生ではないのだから、気にすることないのに。
どうも子どもの頃からわれわれは「将来のための我慢」を強制されている気がする。
将来が不安だから勉強する、将来が不安だから貯蓄する、将来が不安だから無駄遣いしない。将来のための我慢というのを美徳として教えられてきた。
これは社会全体しては必要なことかもしれない。1人が亡くなっても社会は継続する。社会全体がバブル期のような享楽主義に走ってしまっては、どこかで大きな反動が来てしまう。
しかし、個別に見れば人生は一瞬一瞬の積み重ねで構成されている。明日も生きているという「保証」を誰も受けてはいない。大半の人が明日があると信じるのは、昨日まで生きてきたという実績と統計的に今の年齢で死ぬ確率は低いとか、今現在病気じゃないという点によって支えられているだけで、絶対生きているという人は存在していない。
わが母親は今年の9月に南フランスへ旅行に行き、10月は台湾に遊びに行くらしい。いよいよやりたいことをやり尽くしにかかっているようだ。
さる40代半ばの知り合いがこんなことを言っていた。
「事故なんかで幸せな家族が巻き込まれると、とんでもない悲劇って言われるけど、俺なんか車ではねられても同情されないだろうね。『好き勝手やってる中年が死んだ』くらいに思われるだけだろう」
世間としてはそうかもしれない。ただ、亡くなってから悲劇と描かるのと喜劇として描かれるのなら喜劇の方がまだいい。
「やっとけばよかった」はこの世界で通用しないのだ。