クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

今更のランナー

去年の6月に「いわて銀河チャレンジマラソン」の100kmの部に出た。今更の話ながら、出場するまでについて書きたい。なぜ今更かという理由は読めば出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。

 

なぜ100kmマラソンにエントリーしたかと言えば、ノリとしか言いようがない。私がエントリーする直前、会社の後輩が東京マラソンにノリでエントリーして抽選に当たってしまい、大して練習もしない中で完走した。月曜に足を引きずりながら出社した後輩を見て、「こやつがフルマラソン完走なら、自分はウルトラを完走せねば格好がつかない」と思ったのだ。彼の方が若いし、体格も立派なのだから、別に対抗意識を持つこともないのだが、なぜかウルトラマラソンの大会を検索し、ノリでポチッとしてしまった。

押した瞬間の後悔はなかなかのものである。日頃さまざまな失敗をして生きているが、これくらい確信的な失敗は滅多にできない。何しろ金を払って時間を割いて苦行を味わいに出かけるのだから。

 

そんなわけでただのノリで地獄への一歩を踏み出したわけだが、少しは地獄度合いを軽減しなくてはならない。そのためには練習は無論のことだが、経験者の意見を参考にするのが近道だ。ウルトラマラソンは最近人気が広がって、陸連公認の「サロマ湖100kmウルトラマラソン」などすぐにいっぱいになるが、攻略本となるとさほど多くない。やはりマラソンの主流はフルマラソンであり、ウルトラマラソンはフルの距離に満足できないランナーやスピード競技に飽きたランナーのセカンドライフ的な趣が強い。ましてやフルマラソンすら完走したこともないランナーが出場するのは無謀を通り越してただの阿呆である。そんな阿呆に向けた本などこの出版不況の折にあって刊行されるはずもない。結局私はウルトラマラソンを愛好する先人たちのブログを参考に自分なりの攻略法を考案することにした。

 

最初に見たブログの管理人は「制限時間ぎりぎりで完走するくらいの実力」とのことだった。初心者としては参考になりそうだ。サイトによると、100kmを完走するコツはペース配分であるそうだ。なるほどなるほど、もっともである。正しくペースをつかめば完走できるが、100kmの長丁場ではそれが難しいらしい。確かに私にとって25km以上は未知の領域だ。その4倍なんか想像すらできない。

ではこのサイトの管理人が正しいペース配分を実現するために提言しているのは何か。GPS機能付きの高性能腕時計を利用せよと言う。GPS機能付きの腕時計は謂わばカーナビ機能の付いたスマートウォッチらしく、スイッチを入れて走るだけで走行距離やペースを測定してくれる大変便利なものらしい。ただしお値段5万円以上。ありがたい提言だが、たった一回の大会のために負担するには大きすぎる。それにこのハイスペックな腕時計は20時間くらいしか駆動しないらしい。直前に充電し忘れたら、レース終盤でランナーより先に息絶えてしまう。

そういうわけで最初の先輩のアドバイスはありがたく心に留めつつ丁重にお断り申し上げた。

 

大会までの時間は少ない。次に行く。続いてのサイトの管理人はもうウルトラマラソンばかり走っていて、ベテラン中のベテランのようだ。その人は練習について多く語っていた。

100kmにチャレンジするなら少なくとも半年前より準備せよ。そして月間走行距離は少なくとも300km、できれば400kmを走れという。まず、私が大会にエントリーしたのは2月で、大会は6月11日。すでに半年の猶予はなく、4月の平日は仕事が遅くて走ることができない。これまた先輩の金言というものだが、できないものは仕方がない。100kmを完走するためにはとても頑張らないといけないということだけ胸中に納めて練習には励むことにした。

 

いろいろなサイトを見たが、走るための最重要装備はシューズだ。ローマオリンピックの時のアベベみたいに裸足で走るなどできない。ウルトラマラソン用のシューズについても調べてみた。

シューズは丈夫派と軽量派に分かれるようだ。あるサイトでは絶対的な軽量派信者で、「完走したければ軽いシューズにしなさい」と言っている。私も登山では軽量化主義者だが、ここ数年足の裏に足底筋膜炎らしき痛みが走ることがある。特にソールの固い厳冬期用登山靴を履くと土踏まずがピリピリすることがあるが、歩けないほどの激痛になったことはない。ただ今回は未知の100kmを走るのだから、いつ足の裏の板バネがはじけ飛ぶかわからない。ネット上の先輩には敬意を表しつつも私にはリスクが高いとして、ソール厚めのマラソン初心者用シューズとしてアシックスのGEL-KAYANOというモデルにした。ふかふかで大変気持ちいい。

 

数々のアドバイスを見たものの何一つ参考にしなかった結果、オーバーペースで終盤ヘロヘロになり、練習不足で両足は使い物にならなくなった。ついでにもう一つ、「エントリーと同時に宿の予約をせよ」というアドバイスも無視した結果、前日寝る場所にも往生した。

それではなぜ今更1年前の話をするのかだが、先日白馬岳に行った。白馬岳は頂上直下に大規模な山小屋が整備されていることもあり、北アルプス初心者にちょうどいい山となっている。私は行ったことがなかったので何となく行っただけだが、登山口に下りてみると、登山指導員(というのかな)に熱心に上部の状況を聞いているおじさんがいた。「そんなこといちいち聞かなくても行ってみればわかるではないか」というのはこちらの意見で、随分長いこと「ヘルメットは必要か」「アイゼンはいるか」まで聞いていたようだ(聞くくらいなら持ってこんかい)。

それを見ながら「仕事じゃないんだからさぁ」といい加減登山者として思ったのだが、それとともにふと1年前のいい加減マラソンを思い出した。あの時すべてのネット上の先輩たちのアドバイスを聞いて滞りなく完走した場合、どのような感想を抱いただろう。走った事実は変わらないが、「自分で作り上げた大会」という意識はより薄くなっただろう。

結局、何が言いたいかわかりにくい文章になってしまった。まあ遊びなんだから気楽に行こうよ、ということで。

積年の疑問

ディズニー映画『101匹わんちゃん』(原題"101 Dalmetians")の中で、犬さらいたち2人が子犬だらけの部屋でテレビを見ているシーンがある。2人がテレビに夢中になっている間に子犬たちは脱出するのだが、疑問はこの番組は何だったのかだ。ちなみに私が見たのは今から30年ほど前で、アメリカでビデオリリースされたもので見た。当然吹き替え、字幕なし。番組名は"What's my crime?"、つまり「私の犯罪は?」という番組のようで、手錠を嵌めた男が登場し、番組出演者が男にさまざまな質問を投げかける。男はそれに対して黒板に何やら書き付けるのだが、これが一体どういうやり取りなのかがわからない。

犬さらいたちは子犬が脱走するのにも全く気付かずに番組に熱中しているが、何が面白くて笑っているのだろうか。犬さらいたちも、露見すれば強盗の罪を問われる身なので、おそらく作者は大いなる皮肉をこの番組に込めたに違いない。違いないのだがはっきりしたところがわからない。犬さらいたちは手錠を嵌めた男をあざ嗤っているのだが、男の無知を嗤っているのだろうか。犬さらいの1人、Jasperは"What do you know?"と言っている(ような気がした)。


初めて見てからおそらく30年近い歳月が経っているが、こうなると知りたいような知りたくないような気分だ。このまま謎は謎のままにするか、このどうでもいい悩みを抱えたまま今日が過ぎようとしている。

ヰヰヲンナ

本屋をぶらぶらしていると『紀州ドン・ファン』という本が平積みになっていて、「いい女を抱くためだけに、私は大金持ちになった」という帯が目に入った。テレビを見てないので一連の騒動は全然知らないのだが、「いい女」を求めて金持ちになるという夢を実現するのはなかなかである。何が”なかなか”かと言うと、「いい女」というかなり曖昧な幻想に向かって人生の舵を切るあたりがなかなかだなと思う。

ランナーが「夢は金メダリスト」と言えば目標としては具体的であるし、棋士なら名人、ゴルファーなら賞金王といった夢に向かって努力している。しかし、このドン・ファンさんは「いい女」という抽象的な幻想を目的に「大金持ち」というこれまた程度の分かりにくい目標を掲げて努力したのだからある意味すごい。井原西鶴好色一代男』の主人公はもともと富裕な商人だったのに対して、この人は金持ちになることからスタートしたわけだから、目的はともかくその情熱に頭が下がる。

では、彼にとって主目的たる「いい女」とはどんなものだっただろう。果たして人生を賭けて追い求めるものだったのだろうか。考えても埒が明かない疑問が浮かんでくるのである。

 

日本において美人の代名詞は小野小町ということになるだろう。随一の美貌で、歌人としても知られている。ただ、いかにも日本的なのは、通い婚だった当時、美しいと言われる本人をほとんど誰も見たことがないということだ。深草少将が恋い焦がれた話は有名だが、深草少将は99日も通ってのだが、肝心の小町に一度も会ったことはない。会ったこともない人に恋するのは詩的ではあるが、自ら描いた幻想に酔いしれただけのような気がする。しかし、彼がもうちょっと頑強な肉体の持ち主で、100日目も見事に通って小町の心を射止めたとして、めでたしめでたしとなったのだろうか。悲恋物語に終わっているが、彼は恋に恋した幸せな男かもしれない。

 

「傾国の美女」という言葉があるように、美人が人の生涯だけでなく国家レベルで影響を及ぼしてしまう例は中国に多い。

 古代中国の悪女と言えば、殷(商)の紂王の妻、妲己が挙がる。紂王は彼女の言うことなら何でも聞き、酒池肉林の宴を開いたり、諫言する家臣を火あぶりにしたという。紂王は美女にいいように振り回されることに喜びを感じていた幸せな男だったとも言えるし、ただ「いい女」の見込み違いをやって身を滅ぼした男とも言える。

 

しかし、やはり中国史上で傾国の美女と言えば楊貴妃だろう。唐・玄宗皇帝が息子から奪い取ってまで自分のものとしたというから余程の美人だったに違いないし、歌と舞踊に秀でていたというから現代で言えばアイドルである。50男がアイドルにドはまりしたと言ってしまうと実も蓋もないが、現代風に言えば実態はそんなところだろう。現代でもワンマン社長あたりがアイドルに熱中すれば社員は大いに迷惑するだろうが、国家元首がはまってしまうとどうなるかが如実に現れたことになる。楊貴妃本人を寵愛し、好物の茘枝を早馬で届けさせるくらいの逸話にはかわいげがある。しかし、中国史ではよくある話だが、楊貴妃の眷属までが皇帝の寵を受けようとするからタチが悪い。最終的に、楊貴妃の従弟にあたる楊国忠が宰相になったことから安禄山の反乱につながり、唐という国を大きく傾けることになるのだから、アイドルマニアも大概にしないといけない。'idol'の原義は「偶像」であるように、深草少将のように姿も見ずに妄想の中で恋い焦がれているくらいがちょうどいいのかもしれない。中国の権力者は「いい女」をなまじ手に入れられる立場いるから国をめちゃくちゃにするまで惑溺してしまったのだろう。

 

「いい女」の定義は、古今東西いろいろ、個人によっても差異はあるかもしれないが、おおよそ①美人(加えてスタイルがいい)、②歌がうまい、③(男が僻まない程度の)教養があるといったところか。

 先に挙げた人物は1人の女にハマるところを見ると、わりと純愛である。これが浮気性なら命を落としたり、国を傾けたりはしない。

紀州ドン・ファン氏は4000人に貢いでいたらしい(ネット情報)。そんなに相手したら昨日の女と今日の女の区別もつかなくなりそうだが、1人にどハマりしない分、大金持ちになることにも精を出せそうだ。

駄文を並べたが、夢中になるのも大概にしないと思う反面、何かに夢中になれる人生にも憧れる矛盾が人生の面白さかもしれない。

お暑いのがお好き

久しぶりに涼しい日だ。いつものように電車に乗ると座席が空いていたので座って文庫本を開いた。

座るとやけに隣の男が太っていることに気づいた。推定100kg程度、私の1.5倍はあるだろう。列車が発車すると鼾をかいてもたれかかってきた。不潔な服装をしているわけではないが、朝から大汗をかいているのか酸っぱい臭いまでする。「こんなに大きな身体で、一人前の座席ではさぞかし辛いでしょう。どうぞこちらに寄りかかってください」などと言うわけがないではないか!文庫本を持つ手で押し返すと少し撤退するが、すぐに鼾とともに肉布団を押し付けてきて暑苦しいことこの上ない。

電車が遅れているらしく、駅で時々停まる。文句があれば座席から立てばいいのだが、じっと立つのも疲れそうで嫌だ。文庫本の中では内田百閒先生が寒空の下で借金取りとの交渉をしているのだが、暑苦しくて全然頭に入って来なかった。

 

今年は暑い。ここのところ毎年のように言っているような気がするがやはり暑い。気温40℃とか聞くと、ここはサハラかデスバレーか、おかしいではないかと言いたくなる。生活保護者にとってエアコンは贅沢かという議論があったが、これくらい暑いと生命にかかわる。きっとエアコンを買えなかったため、熱中症になりましたとなれば、非人道的だということになるだろう。まあ暑いだけで「健康で文化的な生活」を享受できないのだから仕方がない。

南国の人は明るいような気がする。私の知る中でも(大して多くはないが)フィリピン人は明るいし、マレーシアで仕事をしているおじさん(これは日本人)は高田純次のような明るい人だった。暑ければ凍死はしないし、食物も暑い地域の方が豊富だ。人間の不安の大半は将来食べていけるかに対する不安だが、とりあえず何とかなるだろうという楽観的な観測が成立するのである。

欧米の宣教師とフィジーの原住民との逸話が面白い。

原住民「どうして働かなくてならないの?」

宣教師「頑張って働けば将来遊んで暮らせるからだよ」

原住民「おじいさんもお父さんも遊んで暮らしていたし、今だって遊んで暮らしているよ」

宣教師「・・・」

これは野田知佑さんが好んでする話だが、このような南国人的発想の中では『アリとキリギリス』も『マッチ売りの少女』も成立しない。南国のマッチ売りの少女は売れないとわかったらヤシの木陰で昼寝を始めるだろうし、のどが渇けば木に登って実を取り渇きを癒すに違いない。

 

これだけ暑いと日光で目玉焼きでもできないかと思うのは私だけではないだろう。夏目漱石吾輩は猫である』にも美学者迷亭が細君に瓦にバターを落として卵を焼いた話をしている。今ならGoProで定点観測してYouTubeに投稿するところだ。暑くて熱中症になる前に暑さを忘れるくらいくだらないことに熱中するのも一興かもしれない。

とりあえず、日本が常夏になったら、暑苦しい列車通勤をやめて、川で魚獲りでもして暮らしたい。

大貧民

台風の近づく最中、品川から渋谷を歩いた。特にどこかに寄る用事があるわけではなく、単に電車賃194円をケチるのと、下半身の運動不足解消のためだ。結局、案の定というか、渋谷の手前で台風の大雨に捕まってずぶ濡れになり、何をやっとるんじゃである。

その道中、恵比寿の駅前の交差点で信号待ちをしていると、駅の方から若者が二人歩いてきた。二人とも細身で長身、髪を白かシルバーに染めた今時の若者である。若者の一人が横断歩道の手前に立つと、サッと手を上げた。すると白いトヨタのタクシーが止まり、ドアを開ける。二人の若者はごく自然な素振りで初乗り410円のタクシーに乗り、どこかへ立ち去った。その間194円を惜しむ私はじっと信号が変わるのを待っていた。

 

お金とは何だろうと時々考える。かつて会社の先輩が「金はなぁ、使うためにあるんだぞ。あの世に持って行けないんだからな」と言っていた。そして、その先輩は四六時中、家族がいると金がかかって大変だと嘆いていた。

またある後輩はうっかり異動先で定期券を買うために支給された通勤手当で豪遊してしまった。「うっかり」というのは彼は通勤手当が前月の給与とともに振り込まれることを知らず、急に預金通帳の額が増えたことを無邪気に喜んでいたのだ。その後、彼はしばらく定期券を買えず、回数券で通勤し、昼飯も弁当を持参して凌いでいた。

 

金遣いが荒い二人を紹介したが、私はその真逆を行っている。恥を忍んで書くと、私の社会人1年目は貧乏学生のような生活をしていた。朝昼は食パンにピーナッツバターを付けて食べていた。晩ご飯はもちろん自炊。米を炊き、肉や野菜を適当に茹でて醤油をかけて食べていた。広島で過ごした1年あまりはエアコンすら買わなかった。こんな生活を送っていたが、収入は新入社員としては多くもなく、少なくもない。地方に赴任した同期はすぐにローンでスバルのレガシーを買っていた。まったく我が事ながら呆れてしまう。

では、どちらの方が豊かでどちらの方が貧しいだろう。同じような収入なら豪遊などしない私の方が貯金は多いだろう。しかし、件の先輩が言うように使わない金がいくらあってもないのと同じだ。生活は私の方がはるかに貧しい。

ただ一方で私は少々の出費が控えていても貯蓄がある分泰然としていられる。前の二人は子持ちだが、子どもの教育費を巡っては家庭内闘争が絶えないらしい。実に大変そうだが、時々やってしまう豪遊が元凶の一つとなっているうちはあまり同情もできない。

私は金を貯めるのが好きというより、金のことでやきもきしたくないから普段貧しい生活に甘んじているのだ。その意味ではお金は私にとってはただの精神安定剤であると言える。

 

まあ実際今でも食パンにピーナッツバターかというとそういうわけではない。外食はあまりしないが、刺身も焼肉も食べる。ただ、生活水準を簡単に上げるには抵抗がある。よく芸能人やスポーツ選手の転落人生とかを見ていると、概して生活水準を下げられない人が多い。全盛期に都内の高層マンションに住んでいた人が、収入が減ったからと言ってなかなか古く狭い、郊外のアパートに転居できるものではない。別にそんな高所得者でなくても、車を持っている人は手放せば我慢できないくらいの不便を感じるだろうし、一戸建てに慣れた人はマンションで隣と壁一枚という環境はストレスになるだろう。

身の丈に応じた生活をすれば良いと言われるが、一旦慣れた生活から急に耐乏生活に切り替えられるわけではない。特に年を取れば取るほど難しくなるだろう。

 

水滸伝』で悪政のはびこる宋に対して、梁山泊に集結した豪傑たち首領となったのは宋江という人物である。その宋江を評した記述に「信義に厚く、金離れが良い」という表現がある。読んだ当時、なぜ金離れが良いのが美徳かと思ったが、料理を食べきれないくらい振る舞う中国人らしい表現だし、金がある所に人物が集まるのは古今東西を問わない。金は持っていて、かつ使う人こそ豊かだと言える。

雨月物語』の「金福論」に織田配下の武将と金の精が対話する話が出ている。君子は金に拘泥すべからずという風潮があるが、金は大切にする人に集まるし、有意義に使えば便利なものだという話だったと思う。

そうなのだ。金は本来物々交換の代わりをする道具なのだ。ビットコインも元来送金のために作られた道具なのだが、道具というより、価値の上がる錬金術のような扱いになってしまっている。

「しかし!」と私は言いたい。道具で幸せにはならないのだ。イチローのバットを使ってもヒットを打てないように、お金はただの道具に過ぎない。

 

タクシーに若者が乗り込みのを目にして私は渋谷に向けて歩き出した。登山には何より下半身のトレーニングが必要だ。生活にお金がないと不便だが、登山で下半身の筋力がないのは同じく不便だ。しかし、普段歩き回らない人は不便を感じないかもしれない。

お金も使う額以上あっても活用しないし、結局はないのと同じだ。私はお金があっても一生貧しいままになるのかもしれない。

頭を雲の上に

6月の終わりに富士山に行った。7月末に100kmを走る友人のトレーニングに付き合ってで、初めての新御殿場口コースだ。個人的に、夏の富士登山は「登山」という感じがしない。砂利・砂の道をただ歩くだけで、単調極まりない。今回はまさにトレーニングのためだけに登るのだ。

御殿場駅からの最終バス(と言っても15:25だが)の乗車したのはわれわれを含めて4人だった。西日の厳しい登山口で少し高度に身体を慣らすがすぐに飽きて登り始めた。わずか1500mくらいの高度では慣れるも何もない。すぐに単調な上り坂が始まった。

 

富士山へ向かう途中、海老名駅の本屋でサイモン・シンの『宇宙創成』を買って、道中ずっと読んでいた。神話の時代から始まり、古代ギリシャ人が地球は球体であることを知り、ガリレオが地球が太陽の周りを回ることを証明し、アインシュタイン相対性理論は宇宙が膨張することを示唆した。

きっと何の知識も与えられなければ、地球が丸いことも気づかず生涯を終えるかもしれない。大抵の人にとって普段行き来する小さな家と職場や学校が天地の全てだ。たまには壮大な宇宙に思いを馳せるのいいだろう。今日は星と月明かりがあるだろうか。

地球の面皰のような富士山をさらにちっぽけな人間が夕日の中登って行った。

 

日が沈むと風が強くなった。風の感触は好きだが、富士山のような独立峰は一度吹くと止むことがない。鳴り響く風を一晩も聞き続けると気がめいる。私と友人はラジオでFM横浜を聞きながら歩くことにした。独立峰だけに電波は良く入る。

嘉門達夫が番組をやっていた。関西ではふざけたような替え歌をたくさん出している、歌う芸人といった印象だが、意外に真面目な歌詞の歌が多い。「お墓に行こう」などはふざけているようで聞かせる内容になっていた。烈風の中でクスクス笑いながらもつい考えてしまう。今も一歩一歩、「天」に「死」に近づいていのだと。

 

23時に八合目の小屋前で仮眠。シュラフカバーにダウンでは寒かったが、一時間くらいは寝ることができた。富士登山の困難はテントでしっかり眠れないことだろう。

日本で最も登頂が困難な山はどれだろう。登山道がなかったらと仮定してみれば、剱岳などは立山信仰の「地獄」に見立てられるように、かなり登頂は難しい。新田次郎の『剱岳ー点の記』に描かれる通りだ。穂高なども鎖や梯子あるいはロープなどがなければ命がけの登山だが、現代はルートが整備され、大人のジャングルジムとなっている。

それに比べると富士山は噴火や落石の危険性がややあるものの、無雪期は比較的危険が少ない。体力さえあれば初心者でも登ることができる。

多くの人にとって山は命をかけて登るものではない。それでも夏にあれだけ富士山に殺到するのはなぜだろう。富士山は月面のように殺風景だ。夜歩くと殺風景を通り越して苦痛の中で宇宙を浮遊ように感じる。都市の中の見せかけの命が日本一の殺風景な砂漠の中で少しは鈍い光を放つからだろうか。

満月に近い丸い月がライトが要らないくらい地面を照らしている。

 

日付をまたいで3時には眠さがピークに達した。再びラジオに集中する。パンク町田という人がゲストだった。

「今までカンガルーも飼いました」

深夜の妄想トークかと思って話半分に聞く。

「私結構ゴキブリが好きで、埼玉にいた時は部屋でゴキブリを一万匹くらい飼ってました」

このあたりで一度冗談と判断したのだが、次のトークで変わった。

「今まで咬まれた中では紀州犬が一番痛いですね。それ以上は交通事故と同じで何も感じない」

「あっ、今までの話は本当か」とようやくわかった。それにしても富士山に来てなんという話を聞いてるんだ。焦げ茶の砂や砂利に覆われた富士山は日本でも最も生命感のない場所と言えるだろう。

友人は風が止んだところで「紀州犬が一番痛い」と笑った。

 

夜の富士山、しかも開山前の御殿場ルートはほとんど人の気配はなく、ただ蟻のように這い上がるだけだ。一晩中ラジオを聴きながらただ進む。明け方になると宗教団体の番組に変わる。

「あるところに茂兵衛という薬を商う商人がおりました」と昔話が始まる。以下このような話が続く。茂兵衛の妻が妊娠し、臨月となった頃、茂兵衛は所用で出かけなくてはならなくなった。用を済ませ、帰路を急ぐ茂兵衛。ところが、折からの大雨で川が増水し、渡し舟が出ないという。出産に間に合わないと茂兵衛は焦るが、その時「舟が出るぞぉ」という声が聞こえた。茂兵衛が慌ててその列に並ぶと後ろから若い娘が声をかけた。「母が危篤で早く帰らねばなりません。なんとか変わっていただけないでしょうか?」茂兵衛は一瞬迷うが譲ることにした。

川の近くで宿を取ると、渡し舟が沈み、乗客が亡くなったという話が茂兵衛の耳に入ってくる。先程会った娘も犠牲になったに違いない。茂兵衛は川に向かって手を合わせた。

翌日快晴の中で茂兵衛が渡し舟を待っていると、昨日の娘が立っていた。死んだと思った娘と再会でき、茂兵衛は喜んで商売用の薬を危篤の母君にと差し出す。茂兵衛は舟で川を渡ると、家路を急いだ。そして、家に近づくと元気な男の子の泣き声が聞こえてきた。

どうも納得いかない話だ。実話であればケチをつけても意味がないが、たまたま主人公と親孝行の娘が助かったというだけで、渡し舟に乗っていた多くの命が失われたことは変わらない。これで本当にめでたしなのか。納得できん、納得できんと徐々に明けゆく空に呟く。

 

夜明け前、友人が体調を崩し始めた。高度障害だ。私は少し息が上がりやすくなるだけだが、その友人は胃が気持ち悪いという。これで富士山は5度目であり、さらに初めての登山は富士山だというから驚きを通り越して呆れてしまう。「これで富士山とは1勝4敗だ」と言った。これまで5回のうち、高度障害が出なかったのは1度だけという意味だ。きっと定年になったら大阪金剛山の千日登山とかするのだろう。

期待した日の出はその時いた場所が悪く見ることはできなかった。月夜の登山が目的だったが、晴れた日のきれいな太陽を見ることができないのは残念だ。

 

6時過ぎに登頂。特に感動はないが長い、有意義な一日だった。

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残念な名所

「三大がっかり名所」と言うものがあるらしい。

播磨屋橋(高知)②オランダ坂(長崎)③札幌時計台(北海道)

この中で、私が行ったことがあるのはオランダ坂播磨屋橋は行ったかもしれないが記憶にない。札幌時計台については機会はあったが行っていない。オランダ坂も通ったはずだが写真も残っていない。

これらすべてに共通するのは規模の小ささである。大きい名所はとにかく大きいことに価値を見いだせるが、小さいと救いようがない。

 

最近、宮田珠己さんの『晴れた日は巨大仏を見に』を読んだが、全国津々浦々大きいものに対する憧れはあるようだ。いくら信仰心があってもそれを仏像の大きさに表現しなくてもいいだろうと思う。それでも日本最大とかになるとそれなりに見に行きたくなるから不思議だ。大きいというアドバンテージは生理的な魅力なのだろう。

そうは言っても大きいが残念な名所は存在する。今回は私的名所として、「大きいがそれでもなお残念な名所」を紹介したい。ちなみに紹介しておいてなんだが、行ってがっかりしているので多くの場合、写真を撮っていない。

 

1.渡月橋(京都)

2時間ドラマの定番シーンに使われる名所である。亀山天皇が付けた優美な名前とともに桜や紅葉の時期の写真には欠かせない存在となっている。「京都人の心、渡月橋を冒涜するとはこの不届者!成敗してくれる!」と闇討ちにされそうで怖い。

私が渡月橋を見に行ったのは大学卒業を間近にしたころである。毎日京都に通っていたのにほとんど観光をしなかったので、最後に名所見物をしておこうと友達と出かけたのだ。京都市内を南北を貫く市営地下鉄烏丸線今出川駅からはるばる歩いて嵐山を目指した。

嵐山の市街に近づくと急に観光地ムードが出てくる。それまで平凡な郊外のアスファルトを歩いていたので、唐突という感じがする。歩を進めるといよいよ「渡月橋」という表示が見えてきた。

「あれっ」

桂川が見える。その上に橋が架かっているが、普通のアスファルトだ。鴨川に架かる何本もの橋と何ら変わりがない。月を渡る橋ではないのか。

橋から少し離れ、南側から橋を眺めてみる。ようやくサスペンスドラマでおなじみの画にたどり着いたが、最初に受けた落胆をぬぐうことはできなかった。

橋を名所にするのは難しいらしい。大きいとという意味では明石海峡大橋(兵庫)、瀬戸大橋(岡山-香川)など島と島を結ぶ橋があり、古風で優美という意味では錦帯橋(山口)があり、近代的でレトロという意味では勝鬨橋(東京)などがある。勝鬨橋昭和15年完成なので、昭和9年完成の渡月橋より後輩にあたるが、当時の日本の技術を結集した可動橋という点が大きい。

結局、渡月橋が抜きんでるのは亀山天皇に由来する名前だけと言える。しかし、表面をアスファルトで覆い、車両がガンガン通る橋に800年前の風情を見出すのは難しい。テレビでよく映る、川からの京都らしいアングルと路上の光景のギャップががっかりを助長している。

 これが人しか通らない小さな橋だったらこうはならなかっただろう。京都らしい風情を残すのは徒歩で渡る橋でなくてはならない。

 

2.大阪城

おそらく日本史上最強の城は大坂城だろう。城攻めの名手である豊臣秀吉が築城し、大坂の陣では数十万の徳川方に力攻めの攻城を諦めさせた。現在も内堀や外堀は地名に残っているが、とんでもない規模だ。町を要塞化するという手法は秀吉が始め、家康が江戸で模倣した。そして以降類例はなく、その街の発展は現代の二大都市に続いている。

 

そのシンボルである現大阪城(大阪と大坂を一応使い分けている)の天守閣だが、これはなかなかがっかりである。もともとオリジナルの大坂城大坂の陣で焼失し、その後大坂城代として使われた。現大阪城は戦後に大阪商人が建てたものである。

今の大阪城は秀吉の大坂城の上に建っている。上と言っても他の名古屋や熊本のように石垣は当時のままというわくではなく、秀吉の城は地中に埋れているのだ。大阪の礎を築いた太閤秀吉も複雑な心境に違いない。

商人の町としてシンボリックな名所と言えるのだが、さらに今の大阪城は背中に「小泣ジジイ」を背負っている。「小泣ジジイ」とは何か。それはエレベーターである。まるでガンダムが砲塔を背負うように、べったりと城に付いている。確かサミットの時あたりに設置されたような記憶があるが、めちゃくちゃに調和を壊すこの設備は、世界の調和を壊す強国たちが集うサミットの象徴のような気がした。

このエレベーターを見たら秀吉は怒るより泣いてしまうだろう。

 

3.飛鳥大仏

ちょっと趣向を変えてみよう。これは残念とまでいかないが、見る人によっては残念になるというものだ。

私が飛鳥大仏を訪れたのは小学生の社会科見学だった。石舞台古墳高松塚古墳、亀石や鬼の俎を訪れる定番コースだった。もちろんその中には飛鳥大仏もあった。

飛鳥大仏があるのは通称「飛鳥寺」、正式には法興寺。大仏は都の移転の際も明日香に取り残され、現代に至っている。飛鳥大仏は資料集などで見ると大きさを感じない。他の大仏が見上げるアングルで撮られているのに対して大仏の目線とほぼ同じ高さから撮られているからだ。それでも明日香では随一の大仏である。実物を期待しながら訪れた。

法興寺は大仏殿があるのかと思ったら普通の寺だった。そして金堂の入口をくぐると飛鳥大仏があった。

「あった」と軽く言ってしまったが、まあ大きかった。坐像だが3メートルくらいある。ただ、小学生だったわれわれは「でけー」とか「すげー」とか言わない。黒光りする厳めしいお顔で、でかいのだが瞠目するほどではない。

これはひとえに東大寺の大仏が影響している。東大寺の大仏を見た後では3メートル弱くらいの大仏は中型くらいにしか見えない。東大寺の大仏より表情はしまっており、スリムな体型なのだが、小学生には横綱を見た後に十両の相撲取りを見たような感覚になってしまう。

ちなみに「大仏」とはお釈迦様より大きな仏像を指す。お釈迦様は身長3メートルくらいあったらしいのでそれより大きければ大仏認定となる。坐像で3メートル弱の飛鳥大仏も立派に認定である。

飛鳥大仏は日本最古の大仏で、東大寺の大仏より随分先輩である。鋳造当時は敵なしだったに違いない。少し離れた所に巨大な後輩が登場したことで割りを食った少し哀愁の先輩なのだ。

 

4.日本橋

東に目を向けてみよう。東京の名所は期待以上、期待未満の落差が大きいのが特徴だ。それはコンクリートジャングルに囲まれて、異常に小さく見えるものと、少し周りから隔絶されていい雰囲気のところが分かれるからだ。東京の人にあまり意識はないが、大阪に比べると公園や庭園などの緑は意外と多いと思う。

ただ、東京中のがっかりを代表できるのが日本橋である。これは一言「無残」としか言いようがない。何しろ上に高速道路が走っているのだから。

歌川広重の『東海道五十三次』の始めに描かれる日本橋は木製で、山口の錦帯橋を思わせる姿である。その後、明治に入ってからは石造りの橋に変わるが、デザインを重視する姿勢は変わらない。日本一の橋なのだ。

その姿勢が一変するのは戦後である。川は、空襲によって発生した瓦礫の廃棄場所になり、高度経済成長期には都心の空きスペースとして高速道路が建造された。その中で日本橋も例外ではなく川とともに高速道路に覆い隠されたのだ。

 

ちなみに大阪にも日本橋はあるが、こちらは「にっぽんばし」だ。関西では東京秋葉原のような電器街として知られているが、橋は東京のそれより古く、一応由緒正しい橋であるが、こちらもビルに囲まれて肩身狭く川を渡している。

東京と大阪という日本の二大都市の共通項は「水の都市」であったことだ。これらの都市の発展には「水」が不可欠だった。江戸時代に入り、農耕技術が向上すると、農村を出た人々が都市に流入した。これまで2人でやっていた仕事を1人でこなせるようになれば、土地を持たない人々は都市へ向かうしかない。さらに戦乱のない江戸時代は世界最大の都市を次々に構築することになる。

都市の巨大化に欠かせないのは「水」だ。飲用はもちろん、水路によって大量に物資を運びこまなければ、都市はたちまち枯渇してしまう。大阪日本橋も都市水路である道頓堀川に架かる橋だ。

東京と大阪両者の「日本橋」の現状を見れば、日本人の川に向かう姿勢がおおよそわかるのである。

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5.襟裳岬

 個人的な「がっかり名所」を集めていたら意外とメジャー級のところが集まってしまった。「がっかり」は期待と実際の落差だ。そもそもメジャー級にしか期待が集まらないのでそうなってしまう。さらに、写真いっぱいの観光マップを見たりすると、過度な期待に拍車がかかる。一番いいアングルを写真で先に見ると実物が余計にちっぽけに見えてしまうのだ。

 では、先入観なしに訪れたらどうか。それでも残念な結果になることは往々にしてあるのだ。最後に本人(人ではないが)に罪はないのに残念になってしまった名所を紹介したい。


私が1人で北海道を自転車で旅したのは学生時代最後の夏だった。舞鶴からフェリーに乗り、小樽から知床を目指す、学生にふさわしい旅行だった。真打知床を堪能し、二週間の旅最後の目標として襟裳岬に向かった。

帯広から南下し、襟裳岬に通じる海岸線の道は黄金道路と呼ばれる。金が採れたわけではなく、また黄金のように美しいからというわけでもなく、黄金をばら撒くように資金のかかった道路というのが由来らしい。道は確かに険しい海岸線を抉るように造られ、工事の困難をうかがわせていた。

襟裳岬は霧で有名だ。地理上、霧が発生しやすく、なかなか晴れない。私が岬に向かったその日は曇っていて、本州方面を眺めるというのは絶望的だった。海岸線をジグザグに行き、いい加減飽きたところで襟裳岬が近づいてきた。

岬は険しい海岸線の先端だけあってゴツゴツした岩が海に張り出しており、その根元には観光資料館と数軒の土産物屋兼食堂があった。雲のせいか少し寂れて見えた。

さらにペダルを漕ぎ、岬が迫って来ると寂れた雰囲気を切り裂くような音響が辺りに響き出した。

「なんやこら!」

この北の大地の辺境に一体何が、と思っていると土産物屋の間にあるスピーカーが吐き出す森進一の「襟裳岬」だった。

最初は北海道ゆかりの曲でも流しているのかと鷹揚に構えていたのだが、岬の突端に行って戻ってきてもまだ鳴っている。どうやらエンドレスでリピートしているらしい。襟裳岬は森進一が支えねばならないらしい。

演歌が特段好きではないというのもあるが、好みの押し売りのようなこの観光施策はどうかと思った。襟裳岬は歌などに頼らなくても、訪れる人それぞれの襟裳岬に任せれば良いのだ。あの音響がなければ私の襟裳岬はもっと違うものになっただろうと思えてならない。


旅はそれぞれの物語だ。日常の中でただの脇役だったり、ただの通行人だったりする個人が、ひと時の間主人公となる瞬間である。

残念になってしまった名所は地元の人が無闇に押し付けた価値観を旅の主体たる旅人に受け入れなかった結果なのだと思う。