クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

パタゴニア ガルバナイズド

久しぶりに冬山用ハードシェルを買った。パタゴニアのガルバナイズドジャケットとパンツ。ウェブアウトレットで安くなっていたので衝動買いしてしまった。ちょっと大きめの買い物としては久しぶりなので興奮する。

2018年の締めくくりとして八ヶ岳に着て行ったので、アウトドアライターを気取って少しレビューを書いてみたい。

 

 

まずはジャケットの方。手に取っての感想は表面はレインウェアと違ってハードシェル独特のザラ付いた感触ではあるが、他社に比べるとかなり薄い。冬のハードシェルとして使っていたTHE NORTH FACEのクライムライトジャケットとどっこいどっこい。あちらは剛性が足りないのでお店の人に「厳冬期は使わないでください」と言われたのに比べると少しは耐久性はありそう。まあこれまでクライムライトも厳冬期にガンガン使ってのだが。

 ウェブ画面で見ているとオレンジという感じに見えたが、届いてみるとむしろ赤に近い色で実物の方が良かった。

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実際に使ってみると、裾は長いので雪山には充分だ。これまでクライムライトは裾が短くてお腹がよく冷えた。軽さと剛性は両立されている。防水透湿はH2Oというパタゴニアオリジナル素材だが、雪山なら別にGORE-TEXにこだわる必要はないだろう。

厳冬期用のジャケットは脇下にベンチレーションとしてジッパーが付いているモデルが多いがこれには付いていない。個人的にベンチレーションは不要だと思う。理由として、開けると閉め忘れる、開けた後に閉めるのがややこしい。冬用のゴツイ手袋ではとにかく開け閉めが面倒なのだ。私は暑ければせいぜいフロントジッパーを上下させて調節する程度。冬にめちゃめちゃに汗をかくほどの運動をしたらベンチレーションの有無より前に汗冷えして危険なことになる。

 

ポケットは左右のお腹に1つずつ。そして胸の真ん中に1つ。私は何かと胸の真ん中にあるポケットを重宝している。

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胸ポケット

今回この胸ポケットにはオリンパスの防水コンパクトカメラを入れた。サイズとしては ぴったりだった。

 

今回はヘルメットをかぶらなかった。かぶる場合に気になるのがフード。フードはきっちりヘルメットをかぶった頭が収まるサイズになっている。

ここで個人的に気になるのはフードを調節するヒモで、風が強ければすぐかぶりたい。一方で仲間の声が聞こえにくいので、いつもかぶりっぱなしも不便だ。パタゴニアの調節ひもはグローブをしていても十分引くことができる。フードを外すときは、最初の写真の首元に注目、首元にあるボタンを押せば締めたひもが緩む。ウェストのひもも同様の構造になっていて、裏の状態は下のようにシンプルだ。

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裾ひも

不満があるとすればジッパーがどれも固い。開け閉めが固いのが止水ジッパーの欠点ではあるものの、結構固く感じる。おまけにジッパーを引くための紐が華奢なので、紐がちぎれそうで不安になる。軽量化はわかるが厚手のグローブでも引きやすいようにもう少し丈夫な紐で、ジッパーももう少し開け閉めしやすいものに改善してほしい。

 

今度はパンツ。かなりペラペラ。レインウェアかというくらいの生地の厚さ。ただ履いてみるとフィット感はさすがだ。172cm、58kgでXSサイズで、丈もウェストもぴったり。今までモンベルアルパインパンツを履いていたが、サイズはMの丈LONG。普通のMサイズは丈が足りないのでLONGにしたら、尻や太腿はブカブカした。

ただし、このパンツはペラペラゆえに乱暴に扱うのは躊躇われる。尻セード愛好家としてはちょっと残念。千畳敷カールなんかは登りに50分かかる斜面を3分くらいで下れるのだけど。まあそのうち気にしないで尻セイダーに戻るかもしれない。

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ベルトがビブタイプ、サスペンダーになっているのがパタゴニアの特徴。冬は重ね着になるので特にウェスト周りはベルトだらけになる。ただ以前に買ったパタゴニアのソフトシェルパンツはサスペンダーが長いのか私の胴体が短いのかすぐに外れて役に立たなかった。今回は大丈夫そうだ。

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サスペンダー

履いて行動してみるとこれまで使っていたモンベルのパンツより細身なのがありがたい。冬用なので夏より少し太めなのはわかるが、股の間がシャカシャカこすれるのが気になっていた。ガルバナイズドは内股に歩かない限りこすれない。

裾は軽量化のためなのか、雪よけになるものは一切付いていないので、深雪ではスパッツが必須だ。私は今回、ゲイター付のシューズを使ったのでスパッツは着けずに使用した。八ヶ岳のように通年で人の多いエリアは深雪箇所が少ないという事情によるものだが。

 

 話は変わるが、パタゴニアの商品名は他のメーカーと違う。他のメーカーは山の名前や地名や用途をそのままというケースが多い。アコンカグアジャケットとかアルパインなんとかとか。パタゴニアは英語の国のメーカーだから(アメリカだし)辞書を引かないとわからない単語が時々出てきて面白い。

今愛用しているのはアセンジョニストの45と30なのだが、まず名称の意味がわからなかった。調べてみるとascensionは「昇天」という意味らしい。つまりascensionistは登攀者という意味らしい。登攀ならいいが、昇天じゃちょっと困ってしまうんだけど。Googleで調べるとキリストを中心とした宗教画がいっぱい出てくる。

ではガルバナイズドはどういう意味だろう。調べると亜鉛メッキと出てきた。かつて屋根材の種類を勉強した時にガルバニウム鋼板というのを習ったが、これは亜鉛メッキされたアルミニウム鋼板で、トタンの数倍の耐久性があり、ちょっとシャレた住宅の外壁や屋根に使われている。トタンは錫メッキですぐ剥がれて中の鉄が錆びてしまうが、亜鉛メッキははるかに頑丈なので外壁などに使っても大丈夫なのだ。

話が逸れてしまった。亜鉛メッキの耐久性にあやかって軽くて頑丈なハードシェルということで名付けたのかな。あとgalivanizeで電気刺激するという意味もあるらしい。ということはガルバナイズドの意味は”ビリビリ”という意味なのだろうか。

書いておいて結論が出ない。

 

まだ1度しか使っていないが、このガルバナイズドジャケットとパンツは非常に軽量での作りに不満はない。あと真価が問われるのは生地やジッパーの耐久性というところになるだろうということでまとめにしたい。

一富士

1月3日、実家のある関西から関東へ帰るべく東京行の東海道新幹線に乗り込んだ。晴れた日に新幹線が新富士駅の手前を通過すると、左手に富士山が姿を現わす。窓側のE席が富士見の特等席だが、自由席では早い者勝ちですぐに埋まってしまった。仕方なく反対側の窓側A席に座る。

京都を過ぎて米原あたりでは空は灰色の雲に覆われ、小雨が降り出した。それを見ていると今日はどうせ富士山は見えないかと妙に安心する自分に気が付いた。

 

私が初めて富士山を仰いだのは小学校の修学旅行のときだった。当時は富士山が円錐形の山であることは知識としてしっているだけで、実在する山として認識していなかった。おむすび型のきれいな形をしているが、どこか現実感のない山。松竹の映画の最初に出る山。富士山とは日本という国家が観念的であるのと同様に日本の象徴として抽象的な存在ではないかと思っていた。

京都駅から乗車した新幹線こだま号が1時間も走ったころには新幹線に乗るという興奮はすでになかった。退屈した子どもたちは1人500円までのお菓子に夢中になっていた。

私はずっと外を眺めていた。名古屋から静岡駅までずっと平地が長く続き、時折街が現れたり湖が現れたりした。概ね単調だったがそれでもよかった。ところが静岡駅を過ぎると景色が突然トンネルになった。「なんということだ、これでは景色が見えないではないか」と独り憤っているうちにトンネルを抜けた。

トンネルを抜けると窓いっぱいに巨大な影が見えた。影は新幹線の小さな窓では到底入りきらないようだった。「富士山だ!」という声を聞いてハッとした。これは影ではない富士山だ。今まで半ば幻想と思っていた富士山が目の前に実在としてあった。富士山は漫画のように上だけを白く染めているのではなく、初夏なのでただの蒼い影だったが、左右に下ろした裾は漫画以上に優美で迫力に満ちていた。

富士山は日本一の姿だと感じた。

 

次に富士山を拝んだのはずいぶん後になる。

大学最後にアメリカへ行き、サンフランシスコから戻ってきた時のことだ。行きはバンクーバーでトランジットしたが、帰りは直行便を取ることができた。しかしながら、直行はトータルでは早いものの1回の飛行時間は長い。日本上空に近づくころには退屈はもはや苦痛に変わっていた。1冊だけ持って行った本は山本周五郎の『おごそかな渇き』だったが、アメリカ滞在中はほとんど読んでいない。本のチョイスミスは多少長い旅行では辛い。

着陸予定時間に徐々に近づき、退屈からもう間もなく解放されると思い始めたころ、機内アナウンスが入った。

「機長の〇〇です。ただいま日本上空に差し掛かかっております。機体右手では富士山が皆様のお帰りを歓迎しております」

右の座席にいた私が窓から見下ろすと頂上から三分の一くらいを白に染めた富士山があった。火口も裾も同じようにまん丸で、なぜあんな均整の取れた造形が日本列島にできたのだろう。いくら高くてもエヴェレストの形を想像できる人はそうはいない。ところが富士山はどこから見てもその造形の妙を感じることができる。

機長の粋なアナウンスはアメリカから帰る私には改めて富士山の不思議に気づかせるものになった。

 

以降、登山をするたびにどこかで気になるのが富士山だ。富士山を見ることができればオーライ。雲取山丹沢山大菩薩嶺甲武信ヶ岳北岳。どの山でも富士山はいつも変わらぬ円錐型だった。そして富士山が見えればその山行は満足だった。満足とすることにしていた。

富士山自体には5回登った。しかし、ほとんどトレーニング目的で、他の高山から眺める富士山に比べるとなんて満足度が低いのだろう。富士山はつづら折りのひたすら単調な登りだ。そのくせ5回も登っているのは自分でも不思議だ。これは円錐形の魔力だろうか。

下の写真は5月に金峰山から撮ったもの。一緒に言った韓国人の友人が言った。

 「松竹っていう感じですね!」

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 今回、名古屋を過ぎると空はみるみる晴れて、新富士駅に近づくころには白い頂とわずかに雲をたなびかせた富士山が姿を現した。

窓の外を見向きすらしないでスマホの画面を凝視する乗客を見ると、「ほら富士山ですよ~」と呼びかけたくなった。私が反対側の窓側席から窓を覆い尽くす富士からさりげなく眺めていた。

昼食難民

都内の事務所に勤務してもう何年も昼食は弁当にしている。他人からは慳貪あるいは節約によるものと見られるが、これでも最初の2年くらいは外食だった。しかしそれを弁当に切り替えたのはそれなりの理由があるのだ。

 

会社は都内山手線外の某駅の近くで、外食には困らないくらいの店舗が存在しているはずなのだが、始終昼食には困っていた。

東京勤務の最初の頃に行った(行かされた)のはある地下にある喫茶店だった。昼は喫茶店、夜はバーになる店で、昼食はパスタ・ハンバーグ・カレーを出していた。その店によく行く理由は部署の大半が喫煙者だったからだろう。そして、ボスは煙草を吸わないのだが、週刊誌を読めるということにメリットを感じていたようだ。私にとっては煙草も週刊誌も興味がないので待ち時間が苦痛だった。

さて、料理はというと不味くはないのだが、奥で料理している気配は一切ない。おそらく業務用レトルトを温めて皿に載せるだけだと想像できる。給仕をしてくれるのはなぜか50オーバーのおばちゃんばかりだ。

コーヒーが付いて1000円。しかもメニューは毎回5種類くらいで、ミートスパゲティとカレーとハンバーグ定食はレギュラーメンバー。つまり、残るふた枠をその日の仕入れによって流動させるという乱暴なものだ。

何回も行っているといい加減怒りを覚えるようになった。

 

次によく行ったのは縦に長い蕎麦屋。縦に長いと表現するのは狭いビルを1階から3階までを店舗としているからで、1階に厨房があって少々の席がある。2階から3階までは座敷で、ちゃぶ台と座布団だけがある。大人数で行くと大抵狭い階段を上って2階か3階に通されることになる。そして腰の折れたおばあさんが階段を伝ってやってきて注文を取り、注文の品を届けてくれるわけだが、狭くて急な階段を往復する姿は見ているこっちが怖くなる。

蕎麦屋なのでメニューのメインはもちろん蕎麦。鴨南蛮なんかはこの店で初めて食べた。蕎麦は関西より美味い気がするが、ダシは関西人としては風味が乏しくてあまり好きではない。鴨南蛮の甘いツユも今一つだし、鴨を名乗っているが本当は鶏なんじゃないかと思える味なのだ。

しかも一食を蕎麦だけで済ませるのは気持ちもわびしいし、栄養上ももちろんよろしくない。結局この店で最もよく食べたのはカレーだった。ただし、そこのカレーが特別美味いわけではなく一番腹が膨れるというだけの話だ。

 

蕎麦屋は他にもあって、縦長の他に横長というか奥に広い店もあった。こちらは蕎麦弁当というのが名物で、蕎麦にご飯と若干の副菜が付くものなのだが、あっさりしているくせに量が多くて難儀なメニューだった。

天麩羅屋も行ったが、ひどくベチャベチャで天丼なら食べられるが単品では食べたくない代物だ。おまけに老夫婦で経営しているせいか時間がかかる。私は食べるのが人一倍遅いので昼休み中に食い終わるかが気がかりな食べ物であった。

揚げ物ではトンカツ屋もよく行った。周囲をビルや民家に囲まれた中の平屋の民家を改造した隠れ家的な店で、手前にカウンターとテーブル席、奥に座敷という構成になっていた。ここは「イチローの父親が好きな店」と大先輩から聞いた。イチローがよく通うならすごいが、その父親(大先輩はイチローの父だから「チチロー」と呼んでいた)が来てもすごいこともなんともない。「そもそもイチローって愛知出身じゃなかったか?なんで都内のこんな店に通うんだ?」と疑問符たっぷりの店なのである。この大先輩の話がウソの可能性も大いにある。

味は美味いことは美味い。定食で800円か900円くらいだったかな。ただ、いくら美味くても毎日トンカツは食べられない。

 

昼食は困ったら中華の原則があると思う。野球のキャッチャーが困ったらアウト・ローを要求するように、価格も味もまあ痛い目には合わない。さすが4000年の英知は食に詰まっている。

世のサラリーマンたちも困ったら中華屋に行く。私がよく行ったのは通称「ゴールデン・ゲート」という中華料理店。汚いビルの1階から3階までを使っており、広いことと煙草が吸えることメリット(私にとってはデメリット)であった。

初めて行ったときに先輩社員に訊くと「茄子そば」が名物だという。名物だと言われたからには仕方ないので注文したら、文字通り焼き茄子のようなものの載った中華そばがやって来た。食べると普通の中華そばに特に味のしない茄子がいるだけで、なぜこれを組み合わせたのかさっぱりわからない。

茄子そばは意味不明だったが、ここの餃子やチャーハンは美味い。ただ週1回通うというほどではないし、量が多くてデスクワークでは過剰摂取になりそうだった。

 

その他にもハンバーグやらカットステーキの店やらいろいろ行ったが、コッテリの肉料理が多い。「大戸屋」のような焼き魚を食べられる店はすごい混雑なので、結局は個人経営のそれほど混んでいない店に行って蕎麦や中華や揚げ物で食傷気味になる。

かくして2年弱ほどは外食に付き合ったものの、耐え切れず途中からはスーパーの弁当を買い、出来合い弁当にも飽きたので自分で作ることにした。安いし不味くても自分の責任。高くて不味い料理を食べるよりよほどいい。何より自分でメニューを決められる。

サラリーマン的社会性はどんどんなくなったが、料理の技術と血液検査の結果はこれによって格段に向上したのだった。

北海道自転車放浪記-9

自転車旅に「放浪記」というタイトルは少しそぐわない。自転車族はどこかを目指して走っているので、あまり無目的に「放浪」している人はいない。目指すのは大概が端っこで岬などが目的地になり、自転車を今日も明日も東へ西へ、北へ南へ走らせることになる。

では、なぜ「放浪記」とタイトルを付けたかだが、私が出会った自転車人は定まることなく人生を放浪しているように感じたからだ。自転車にテントを積んで無料の宿泊施設を渡り歩けば1日2000円くらいで生活できる。年間にして73万円。年収が100万円と聞けば一大事のように聞こえるが、野宿生活なら十分生きていける。年収500万円をもらうのと引き換えに1日8時間、年間200日以上を差し出すことに意味はあるのだろうか。

この時の私は大学の4回生。次年には就職し人生の方向が定まると感じていた。その一方で人生を放浪する旅人たちとの交流はささやかな私の人生観を揺さぶる波を起こしていた。

 

襟裳岬からは海岸線を苫小牧に向かい、そこからフェリーで福井県敦賀港を経て帰宅するつもりだった。

そして最後の夜もキャンプにするつもりで無料のキャンプ場にテントを張った。テントは父親自慢のダンロップテント。なんと結納返しに祖父からもらったといういわくつきの品で、購入から20年以上を経過してもはやボロボロになっていた。最も困るのは雨で雪山を想定したこのテントのフライシートは全体の半分しかカバーしない。旭川の近くのキャンプ場でテント張った時には観測史上初という大雨に見舞われ、テントの天井から水しぶきが降ってきた。しかしそんな日ももう最後である。

テント場は湖畔であまり整備はされておらず、人は全くいなかった。最後の晩は独りかと考えていると、原付に乗った人が現れた。背が高く、色黒で最初は男女の区別もつかなかったがどうやら女性だ。

「小笠原から来ました」

確かに彼女が跨ってきたミニカブのナンバープレートには「小笠原村」と書いてあった。「どうやって来たんですか?」と尋ねると

「父島からフェリーで東京に行って、ひたすら一般道で青森に行って、フェリーで北海道に渡りました」

小笠原村の人など初めて見た。というか小笠原村って村なんだな。スーパーで買った鳥の砂肝を勧めると「砂肝ってめったに食べられないので嬉しいです」と言う。

「小笠原では食材がどれも古いんです。全部本土から届くから賞味期限なんて2ヶ月か3ヶ月過ぎているのが当たり前で」

日本もいろいろだなぁと思う。北海道のようにあり余る土地に食物が育つ地域があるかと思うと、生活物資や食品の多くを輸入(?)に頼らなくてはならない島がある。

自分が小笠原出身だったらと夢想してみる。周りにはきっと島からめったに出ない人もいるだろう。若者は都会に憧れるだろう。自分も島の景色に見飽きて、原付を駆って北海道まで来るだろうか。きっと行くんだろうな。

 

最後の日は苫小牧でホッキ貝丼を食べ、ビールを買って夕方のフェリーに乗った。

曇り空の甲板で海を眺めながらビールを飲む。北海道の大地に憧れて北へ向かったが、思い出すのは出会った人ばかりだ。北海道自転車旅の収穫はウニを食べたことでも知床の景色を堪能したことでもなかった。広い大地で日本全国から集まるさまざまな人に出会い、その人生に触れたことだった。

8月がもう終わろうとしていた。

北海道自転車放浪記-8

多和平からは阿寒湖方面に向かい、途中1泊して帯広に向かった。北からの追い風の中、まっすぐな道を滑るように進む。時折風の中に獣の匂いが混じり、しばらく走ると牧場が姿を現す。巨大な米俵のような藁の塊がぽつぽつとある。牧草ロールと言うらしい。

途中、せっかくなので牛乳を飲んだ。美味い。常に空腹状態なのでなんでも美味く感じるけど。

北海道にはMDを何枚か持って行っていた。別に北海道だからといって松山千春を選ぶわけではない。自転車でアクセク走るのに透き通った声で歌われると気が抜ける。さだまさしの「北の国から」もそぐわない。よく聞いたのは大塚愛で、なぜというと理由は特にないが、孤独な自転車旅には明るい歌が合うというのが持論だ。

 

帯広では「大正カニの家」というところに泊まった。徒歩・自転車・バイクの人は2泊まで無料。立派なロッジで、太陽熱温水器が付いているので夏ならシャワーも浴びることができる。シャワーを浴びてすっきりした。

近くのコンビニで食材を買いこんで、ロッジの表にある自炊スペースで米を炊いた。辺りには食事をする場所もないらしく宿泊者はみんな食べ物を持って集まってくる。ライダーはあまり料理をしないのか、コンロを持っている人は少ない。1人だけコンロを使って豚肉とネギの炒め物を作る。私は作った量が多いので何となく周りに「良ければどうぞ」と差し出したのをきっかけに数人での会話が始まった。

やがて1人の男性が「俺はこんなことしかできないから」と言ってビールやチューハイの缶を置いた。見知らぬもの同士の乾杯。暗闇がせまり、灯りのないスペースなので顔もよくわからない者同士の不思議な宴会だった。

 

帯広からは一気に南下して襟裳岬を目指した。

襟裳岬までは「黄金道路」と呼ばれる海岸沿いの道を行く。「黄金道路」は金に関連するというわけではなく、「黄金を敷き詰めるくらい金のかかった道路」ということで付いた名称らしい。複雑な海岸線を削り、くり抜き、険しい岩壁の上に道路が築かれている。

自転車でこの黄金道路を行くのが面白いかというとそうでもない。細かいアップダウンで疲れるし、後ろから来る車にも気を使う必要がある。この旅行のためにホームセンターでハンドルに巻きつけるタイプのバックミラーを買ったが、車のスピードの速い北海道では必須だった。

襟裳岬の手前のキャンプ場で一泊する。芝生の気持ちの良いテントサイトで近くに温泉設備もある。温泉設備は地元のおじいさんでいっぱいだった。テントサイトで夕食の準備をしていると、自転車の兄ちゃんがいたので一緒に夕食を食べた。

「東京から来ました」と兄ちゃんは言う。東京から東北を経て北海道に渡ったらしい。自転車はまともなマウンテンバイクだったが、荷物はキャリアに括り付けただけという乱暴なもので、装備はかなり少ない。自炊もしないと言うがよくそれで走れるものだ。私はコンビニ弁当では3日で飽きてしまう。適当に作った「おからと豚ひき肉炒め」を勧めると「いや~、美味しい。もうちょっともらえますか?」と言ってもりもり食べる。相当に飢えてたらしい。私にとっても赤の他人に自分の作った食事を提供する体験はこの北海道旅行が初めてで、「美味しい」と言ってもらえることに初めてささやかな喜びを感じていた。

 

当初、襟裳岬が最後のハイライトのつもりだった。ただ、キャンプ場から翌朝行ってみるとスピーカーから割れるような森進一の「襟裳岬」が鳴り響いており、特にファンでもない人間からするとやめてくれという感じだった。

襟裳岬の先っぽを見物した後、岬の近くにある店に入り、朝ご飯に「ミニうに丼」を食べた。そうすると、海の見える席から「お~!来たか」と声をかけられた。その日の朝にキャンプ場で会ったおじさんだった。なぜか自転車に興味深々だったのだ。

「自転車なぁ。自分でもやってみたいけど自信もないから車で走ってるんだ」

おじさんは自転車に若者のロマンを感じているらしい。私ともう1人自転車の人を自席に招いて3人でうに丼を食べた。おじさんは「ここは奢らせて」と言ってさらっと3人分を支払った。

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北海道自転車放浪記-7

北海道らしい景色と言えば広大な牧場や地平線まで伸びる大地、緑の草原を自由に疾駆する馬。知床までを往路とすれば知床以降は復路となる。折り返しを迎えて最後には北海道らしい景色に出会いたかった。

知床からは海岸線を中標津まで進み、道東の内陸部を通って帯広を目指す。『ツーリングマップル』を見て北海道らしい景色を探した。地図の記載によると多和平は360度地平線が眺められる大牧場だという。前半で美瑛や富良野といった北海道の定番スポットをパスしたので、北海道を堪能するにはここしかないと思った。

 

中標津から内陸に入ると直線的な道路が増えた。時折背後から通過する車はどれも猛スピードで怖いが交通量は少ない。

自衛隊の車両が隊列をなして追い越して行く。さすがに「国営」だけあって制限速度順守で通り過ぎていく。遅いので顔の表情が見えるくらいだ。しかし、みんな前をキッと向いたまま表情を変えない。汚いシャツを着て自転車を漕ぐこちらと茶色の制服で身を固めた彼らに大きな隔たりを感じた。任務の間は表情を緩めてはならないという規則があるのだろうか。平和を謳歌する若者への軽蔑だろうか。

車列は始まってから10分以上かかって最後の車両が私を追い抜いて行った。最後の車両に乗車していた1人だけが私に手を振り、私もそれに気づいて慌てて手を挙げた。

 

多和平に行く前に食事をした。

自転車を長時間漕ぐと腹が減る。登山やマラソンのような有酸素運動もそれなりに腹は減るのだが、自転車は一番だと思う。朝6時に朝食を食べてスタートすると9時には第2の朝食、12時に昼食となり、3時間おきに食事を摂ることになる。バイクがガソリンを食うように人が燃料を食うのが自転車だ。

ツーリングマップル』に載っていた「やまや」という洋食屋に入った。地図に「ボリューム満点」と書いている「やまやスペシャル」なるものを頼む。時刻は2時過ぎでカニ飯の時と同様にほとんど客はいない。のんびりと水を飲みながら空腹をやり過ごした。

出てきたのは唐揚げ、スパゲティー、目玉焼き、チキンライスをこれでもかという具合に1枚の皿に乗っけた料理とも言えない料理。味はそれぞれまあまあなのだが、とにかく量が多い。

北海道には腹ペコ自転車族のために大盛りの料理を出す店がいくつもある。私は行っていないが、道北の方のラーメン屋には「チャリダー麺」というメニューを出す店があって、30cmくらいの高さになるラーメンを出すらしい*1。丼に高く聳えるのは大量のもやしで、客はそれを上からワシワシと食していく。その下の麺も3玉くらいはあるらしい。これより小さいのは「ライダー麺」でそれでもなかなかクレイジーな量だと言う。

この「やまやスペシャル」もどうだこのヤロ的な北海道ならではのスケール感のメニューではあったが、途中からはわざわざ北海道に来てまで食べる内容でもないと感じるようになり、最後はチャリダー(北海道では自転車ツーリストをチャリダーという)の意地で完食した。

 

多和平は小高い丘のキャンプ場だった。

1日汗をかいたのに風呂がないのは誤算で、タオルで身体をふくが少々気持ち悪い。「やまやスペシャル」のおかげで胸焼けがして夕食は食べる気がせず、テントの前で何をするでもなくぼんやりとしていた。多和平は丘の上なので、機動力のあるバイクの人は多かったが、自転車の人は見かけない。バイクの人も集団で来ている人が多く、私は独りぽつねんとしていた。

やがて日が丘の向こうに下りて行った。逆光の丘を眺めていると数頭の馬が反対の坂を登ってきた。やがて馬たちの影が丘の上で踊り始めた。少しずつ陽の光が力を弱めていくと、馬たちは舞踊を止めてどこかに立ち去って行った。

*1:後に閉店したと聞いた

北海道自転車放浪記-6

いよいよ知床に来た。

知床半島は北海道の角のように北東へ張り出しているが、その付け根から付け根へ知床縦断道路が走っている。西の付け根は斜里で、東の付け根は羅臼である。

私は夕べバーベキューをごちそうしてくれたお兄さん方に礼を言って別れを告げ、知床五湖へ向かった。知床半島の西側の付け根から少し北上すると知床五湖がある。知床五湖に向かう道に入るとどこからともなく大型観光バスが現れ、この日本の僻地に渋滞が発生していた。自転車はこのあたりは楽だ。駐車場待ちをしている車をすり抜け、湖に向かった。

当初、北海道旅行を企画した時、知床を最終目的地にしていた。自転車で「日本最北の秘境」に向かう。そんな漠然としたイメージで北へひた走ったわけだが、知床五湖は一大観光地だった。知床はヒグマの一大生息地であり、ビジターセンターではクマよけのカウベルが売られていたが、もはや観光客だらけ、クマ鈴だらけであちこちからカランコロンが聞こえてきて、これではクマも寄り付かんわという状態だった。

森の中から羅臼岳を見上げることができる。陽が差してきたの緑が映える。知床の美しさはわかったが、木道から眺める景色はちょっと作りの凝った博物館のようなバーチャルな印象だった。

 

知床五湖からは一度戻って知床縦断道路を通り、知床峠を越えて羅臼に下りる。縦断道路はつづら折りの坂が続き、大量装備の自転車にはきつい登りとなった。後ろから自動車やバイクがシュンシュンと抜かしていく。

ヒーヒー言っていると、1台のバイクが通り過ぎ、20mくらい先で止まった。「誰だ?」と思ったら、一緒に北海道へ来た同級生である。「おー!」とこちらはテンションが上がるが、彼は冷ややかに「大変そうだねー」などと言う。しばし、それぞれの行程を話すと彼は「じゃあ、もう会わないと思うけど」と言って笑顔で去って行った。

やれやれ、自転車はひたすら孤独なのだ。

自転車の走行距離には個人差がある。私の場合は1日100kmくらい。1日80kmの人と比べると5日で100kmの差が出てしまう。1日の中でのスピードのリズムもそれぞれ違う。結局距離の自転車ツーリングは1人が良い。

 

知床峠までの長い登りを抜けると空は曇ってきた。折角のピークなのにガスで遠くは全く見えない。

ようやくたどり着いたという気分だったが、誰にも話しかけられない。峠にある駐車場では大学のサークルらしき自転車集団がいるが、団体で来ている連中には話しかけづらい。自転車は1人がいいと言いつつも寂しいものがある。

早々に峠から坂を下る。荷物が重いので慎重にハンドルを操作するが、メーターは時速40kmを示している。慣れてくると楽しくなってきて鼻歌も出始める。ふと前を見上げるとカーブの先にバイクを見つけた。バイクは止まっている。バイクの後部には赤いものが括り付けてあった。

バイクに近づいてみるとミラーは折れ、クラッチレバーが外れかかっている。一目走行不能のようだ。後部の赤いものは寝袋だった。そしてそれは私が同級生のライダーに貸したものだった。バイクはワイヤーでできたガードレールに立てかけているようだ。もしかしてこの崖から落ちたのかと思い、崖下を覗き込んでみたが下は深い森が広がっているばかりだった。携帯の電波は通じない。私はバイクをそのままにしてモヤモヤを残したまま坂を下った。

 

羅臼の国営キャンプ場はキャンパーにとっては最高の場所だと言える。景色こそないが、森の中で敷地は広々しており、近くには温泉もある。

キャンプ場でバイクの同級生に電話を掛けた。

「あれ、バレた!?」

と彼は言った。何のことはない。下りでコケて走行不能になったのだった。大して怪我もせず、通りがかりの車に乗せてもらい、電波の通じるところまで移動したらしい。

レッドバロンに連絡して修理してもらうことになったよ~」

にこやかに答えられると、崖から落ちたかと心配した自分が大げさだったのかとも思う。ただ、過去に教習所で足を折った「前科」があるだけに万が一を考えてしまうのは無理もない話。

キャンプ場の喧騒を聞きながらモヤモヤはさらに心の中で取れないシミのように広がるのだった。

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