クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

都会で拾い食いできる野草と果実

最近は週休1日で、山にも行かず、かと言ってダラダラ過ごすのも嫌なので、ランニングをして筋トレをして、結果日曜日は疲れ果てて寝ている。

この週末はついにオーディオを買いに行ったが、その話はまた今度に。

相方とぶらぶら10kmほど歩いて帰宅した。

最近の我が家のトレンドは「拾い食い」となっている。春からいろいろな草木が育ち、案外見渡せばいろいろあるなあと感じた次第。

今回は拾い食いできる野草と果実を紹介したい。

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枇杷(ビワ)

ふと寄った公園の中に果樹があった。

枇杷の木である。都会の中の大きな公園の中とはいえ、大粒の実を付けている。惜しむべきは手の届くところに実はなく、竹竿でもなければ取れないところ。

先日、八百屋で1パック350円で売っていた。これを取れたら3000円くらいになるだろうかというくらいたわわに実っている。

下に落ちていないかと探したが、ないのであきらめた。

 

②蓬(ヨモギ

3週くらいまえだろうか。相方と蓬を探しに行った。

なんでも蓬染めにするらしい。どこにでも生えているが、どこででも取れないだろうと思っていたら、道端の植木の中にどっさり生えていた。

相方は嬉々として取り始めたのだが、道行く人には間違いなく注目される。まあ雑草とみなされるような草だから、誰にも迷惑をかけるわけではないと割り切って袋一杯に詰めて帰った。

蓬は餅に入れたりいろいろできるが、今回は相方がひたすら蓬染めに使っていた。蓬染めには豆乳を使い、ウールなどの動物性の生地が良く染まるらしい。

 

③グミ

これまた春先に玉川上水沿いを散歩していたら、赤い宝石のような実が付いていた。これも枇杷と同様に上の方にたくさん実っていてなかなか取れなかったのだが、手の届く範囲で取って食べてみた。

春の甘酸っぱい味。

 

④梅

これは昨日、また道に落ちていたので拾って帰った。前回は梅酒にするのに使った。

時期になるとどかどか生るのに、取らない家や畑が多いようで、道にやたらと落ちている。もったいないので「ご自由にお取りください」とかにしてほしいものだ。

今回は砂糖漬けにしようと思っている。

 

その他、秋には金柑とかも生るのだが、これも自生しているものではないので、なかなか取れない。道に落ちていたら「ラッキー!」という具合。ツクシなんかも春先は取れるものの、他人の所有地に生えていて大っぴらには取りにくいのが難ではある。

案外都会で拾い食いできるものは多い。

昨今、ESG投資なんかの影響で「自然環境にやさしく」とやたらに騒がれているが、もっと野草や果樹でも取って自然に生かされていることを知るべきかと思う。

豪邸に住むためには

昨年からのコロナの影響で出生率がまた下がったようだ。

こうなると将来の労働人口が減り、日本のあらゆる需要は下がり、衰退の一途をたどっていく。これは経済学者ならずとも考えることで、またまた子育て家庭の支援だとかいう声が高まりそうだ。

車もマイホームもほしいという人が減った今、都内の住宅価格は上昇しないだろうとも言われている。

今後、広すぎる豪邸は人気がなくなるだろう。

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将来は豪邸に安く住めるかも(写真は松本城

会社の古い資料を漁っていたら、さる合弁会社の設立時のものが出てきた。

名を連ねるのは日本を代表する航空関連の社長やら重役、元官僚や軍人。経歴や住所まで載っている。

輝ける経歴の中にあっては東京帝国大学卒くらいは面白味に欠けている。陸軍大学校卒で航空部隊にいたりすると「おおっ!」となり、中学卒業とか高校卒業という学歴だと「ガンバレ!」と応援したくなる。

住所も麹町とか麻布といったものもあれば、小金井というのも見つけて妙に親近感が湧いたり、輝ける経歴と住所の因果関係に想像を巡らせるのは何となく楽しい。

その一方で、東京帝国大学、官庁、麻布在住となるとずいぶんつまらない人生を送っているようにも思えてきたりして、不思議だ。

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誰もが憧れる輝かしき人生。それと広く日当たりのよい豪邸。

これまでの日本は大変わかりやすかった。パッケージされた人生をクリアすることがある程度の目標になっていた。

今、子どもたちの憧れはユーチューバーである。果たして子どもたちはパッケージされない人生を望んで憧れるのだろうか。それともパッケージされたユーチューバーというイメージに憧れ、あいかわらず豪邸に住むことを夢見ているのだろうか。

若い頃の苦労はするべき?しないべき?

若い頃の苦労はするべきだろうか。

そんなことをつらつら考えるのは、コロナの影響で本社勤務の新入社員が増えたからだ。彼らを見ていると早く一人前にならねばという焦りや同期入社同士のライバル心、これからどうなるという不安があるのかないのかよくわからない。

こちらが年を取ったということだろうか。

 

私の入社した時はとにかく新人は地方だった。

行った先の人たちは大抵優しいのではあるが、いきなり見ず知らずの地に住んで、社会人1年目を過ごすのは孤独で、それなりに気疲れもする。苦労と言えば苦労で、大変な事業所に配属になると休みなんかほとんどないという話も聞いた。

私の場合はそんなことはなかったけど、勤務先は広島の片田舎で土日出勤は当たり前。脚立に乗って機械を交換したり、セメントを捏ねたり、炎天下で草刈りしたりと肉体労働が多い。それだけでなく事務所では台帳を入力したり、簡単だけど図面を描いたりといった仕事もあり、心身ともになかなかハードな新入社員時代だった。

ただ、永遠にこの仕事をするわけではないという割り切りもあったし、見知らぬ地でやることもないのもあって当時は悪い経験じゃない気がしていた。

 

いきなり本社だと土日祝日は基本的に休みだし、エアコンは効いている。部署にもよるのだが、管理部門の新人の仕事はルーティーンを覚えることから入るので、苦労して考える必要もない。

根性論は嫌いなのだが、

「オイオイ、若いのがそんなことでええのか?」

と思ったりする。

 

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若い頃の苦労はするべきかと問われれば、「しとけば後が楽」と答える。

苦労か楽かの問題は落差なのだから、先に大きな苦労を知れば、後から来た少々の苦労もそれほど感じない。何より体力と回復力があるから、乗り越えやすい。年を取ってからの苦労は若い時より目減りした気力と体力で乗り越えなくてはならない。

一方で、ことわざを楯に取って若い者に理不尽な仕事を突きつける大人がいるのも事実。大概、価値の低い仕事、嫌な仕事を押し付けることが多いから、若い方は「苦労はしなくていい」となってしまう。

しかし、価値の高くて難しい仕事なら苦労してでもやった方がいいと私は思う。というか価値が高い仕事こそ苦労するのだから、苦労しない仕事はしないくらいでもいいのかもしれない。

「己はどうか」と問われればそんなに難しいことをしていないのかもしれない。それでもお客にどやしつけられたり、爆発を起こしたり、土手から車を落としかけたり、これだけ書くと何の仕事かさっぱりわからないだろうけど、いろいろあった。とにかく現場仕事は何が起きるかわからないので、スリリングな1年だった。

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イラストレータ沢野ひとしの言葉

「若い頃の苦労は買ってでもしろ。年を取ったらとにかく金で解決しろ」

ふざけているようだが、真理かもしれない。

クレイジーになる幸せと不幸~『奇跡のリンゴ』を読む

奇跡のリンゴ』に関して雑感をもう一つ。

なぜ主人公の木村秋則は無農薬のリンゴに取り憑かれたのか。当人はバカだからという具合に笑い飛ばしているようだが、途中で自死も考えるくらいだから、本当にバカならできない。

バカというより狂っていた、「クレイジー」だったという方が正確かもしれない。

 

登山家・山野井泰史さんはテレビ番組のインタビューで

「登山と出会ってから、ずっと発狂状態」

 と語っている。

自らを危険に曝す行為を静に受け止めている一方で、マカルー西壁やジャヌー北壁に登れるなら命の引き換えにもとも著書に書いていて、まさにクレイジー。本当に登れるものなら登りたいという意思が伝わってくる。

奇跡のリンゴ』の木村氏が4つある農園をすべて無農薬にし、退路を断って取り組んだ。ある意味で下りることのできない山に登るのと共通しているように思える。

登れない山に登る。そこに駆り立てるものは一体何だったのだろうか。

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最近はめっきり行かなくなった「命がけ?」のバリエーション登山

'crazy'という言葉には狂っているという意味の他に夢中であるという意味もある。英語でこの相反する意味の言葉があるのは非常に面白い。

もともと『奇跡のリンゴ』はNHKの番組で取り上げて全国的に有名になったそうだ。NHKなのだから、無農薬の困難とその社会的な意義を番組の中で大きく取り上げたのは想像に難くない。

ただ、本を読むうちに「なぜそこまで」という疑問が付きまとってくる。

無農薬への挑戦でわかるのは、絶対に真似はできないということだ。すべての作物を無農薬で育てるためには、農地をすべて原始自然の状態に戻さなくてはならない。真似ができないということでは、社会的意義は極めて少ないと言える。

しかし、『奇跡のリンゴ』が人々の感動を誘ったのもまた事実である。何が感動を誘うのか。それは社会的には意味がなく、本人にしか意味がないことなのだろう。本人にだけしか意味がないことだから他人から見れば「狂っている」し、本人は「夢中」なのだ。

無農薬のエゴと生命の循環~『奇跡のリンゴ』を読む

石川拓治『奇跡のリンゴ』を読んだ。

今や日本一有名になったリンゴ農家、木村秋則の物語。

20代で無農薬のリンゴを作ろうと決意するものの、害虫が発生し、木々は病気にかかり、一家は破産寸前。すべてを終わりにしようと首を括る場所を探して山に入ったところで、今までの間違いに気づく。

死にに入った山で本当のリンゴの育て方に気づいた木村は山を下りて再び無農薬のリンゴへの挑戦を続け、ついに花を咲かせることに成功する。

 

 読むまで知らなかったが、完全無農薬というのはリンゴの栽培においては狂気の沙汰と言っていいらしい。

 リンゴは栄養豊富で、甘みもたっぷり。ゆえに虫のとって格好の獲物となる。現代のリンゴは品種改良によって美味しくなった分、病気にも弱い。そのデメリットを補うために大量の農薬を使っていた。

 農薬を止めたリンゴの木はたちまち過酷な野生の環境にさらされ、とても実をつけるどころでなくなってしまう。虫を取っても酢を撒いても効果は薄く、ほぼ無収入という状態が10年以上も続く。

彼は、登っても決して下りることのできない山に登ってしまったということになる。

 

結論から言ってしまうと、無農薬リンゴの実現に必要なことは野生に耐えうるリンゴの木を育てることらしい。

つまり、農薬や肥料に頼らなくても自力で栄養分と抵抗力を身につけなければ、実をつけることは不可能。肥料を与えると、栄養過多で根を伸ばすことも怠り、結果的に木を弱らせることにつながる。害虫を駆除すると益虫も来なくなり、木の周囲で生態系が失われてしまう。

所詮、人間が自然を作ることはできないということだ。

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道で拾った青梅は無農薬だろうか

 

 先日、聞いたところ今日本の作物で農薬を使っていないものはないらしい。

その話も納得である。栄養過多な作物を作ればたちまち虫の餌食となってしまう。虫だって自然に自生する食物よりカロリーたっぷりの米や果実の方がいいに決まっている。

これらの作物は人間が自らのエゴで効率よくたくさん取れるように改造したものだからだ。

そう考えると無農薬、有機農法を謳う作物を好んで買うのもどうなのかという気がする。効率の良い農法もエゴならば農薬を使わない、「安全」と思われる作物を買いたいというのも身勝手なエゴである。

「食の安全」と言えば聞こえはいいが、所詮は 自然の摂理を無視した人間のエゴとエゴの帳尻合わせのように見える。

 

食物は自然の生み出したもので、工業製品などではない生命の宿ったものである。その生命を食べてすべての動物は生きながらえている。その摂理は生命誕生から変わることはない。

その自然をコントロールしようとすれば必ず歪が起きる。それがこの無農薬への挑戦というものには顕著に現れている。

今こそ知るべきかもしれない。

人間は自然の一部であることを。

梅酒を漬けるということ

 梅雨に入ろうとしている。

今年は雨が続くのに関東はなかなか梅雨入り宣言が出ない。「梅雨」とはよく言ったもので、店頭に青梅が並び始めたので梅酒を今年も漬けることにした。

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豆腐を作った時と比べれば手順はなんていうことはない。

梅を買ってきて洗う。水気を切ってヘタを取る。瓶に青梅と氷砂糖を交互に入れ、蒸留酒を注ぐ。以上。

今回は対して工夫もないが、散歩に行った時に道で青梅を見つけた。

「このまま放置すれば道が汚れるではないか。実にけしからん」

と呟きながら、相方と遺失物として拾得した。

 

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買った梅は小さく、拾った梅はかなり大きい。

梅酒に漬けた梅を我が家は最後食べることとなっているので、大きい方がいい。拾い梅もありがたく投入する。そして最後にウイスキーを注いだ。ホワイトリカーよりこちらの方が味が深くて好きだ。去年は少々甘かったので、砂糖はやや控えめにする。

 

以前、「クレイジージャーニー」というテレビ番組で、ウイスキーにのめり込んだ男性が出てきた。曰く「ウイスキーは時を飲む飲み物です」。

なるほど紹介されたウイスキーの作り方は手間のかかるもので、わざわざそのまま飲める酒を蒸留して、樽に詰める。蒸留にもこの木がいいとかあって、飽くなき探求心というか、しつこいというか。こうやって取り憑かれたように暇をつぶすのが人生というものだろうと思ったりする。

「時を飲む」というのはどこか詩的のようだが、「がばいばあちゃん」に言わせれば暇つぶしだろう。しかし、この暇つぶしが見つかるかどうかが人生の充実度に比例しているような気もする。

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そんなわけで今年も梅酒を漬けた。残った梅は梅ジュースにでもしようか。

梅酒ができるのは半年後くらいだろう。

梅酒もまた時を飲むものである。

もしも会社がなくなったら

またしても休日出勤。

もはや去年から定番化していて、もともと休日が何日付与されているのかわからない。かと言ってそんなに仕事が好きでもないのだからまいってしまう。

宮田珠己さんはサラリーマン時代に、ある日突然会社が消えていて、

「そんな会社ここにあったかねぇ?」

と道行く人にいわれないかなあと夢想していたようだ。しかしながら、現実にはそんなことは起こりえず、相変わらず会社の社屋がドンと建っていてがっかりしていたという。

今の私も似たようなことを時々考える。

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山一証券が経営破綻した時だっただろうか。テレビの記者が社屋の前で待ち構えて、山一の社員に

「これからどうされますか?」

と不躾な質問を繰り返していた。多くは逃げるように立ち去って行ったが、中には途方に暮れた表情で

「まあ、とりあえず家族会議でしょうか」

と答えているのが印象的だった。

きっと今までは愚痴も言いつつ通っていたのが、いざ倒産となるとどうしていいのかわからなくなるらしい。

 

沢木耕太郎のエッセイの中で、登山家山野井泰史さんが

「突然会社が倒産して途方に暮れる人は会社が倒産することを想像していなかったからではないか」

と語っている。

今は上場企業の場合は業績を開示する義務があるし、突然ということはないだろう。ただ、それでも今まで自分の自由を縛ってきたものがなくなると、多くの人は想像していなかった「自由」が重しとなって身動きができなくなるのかもしれない。

今いる会社でも定年再雇用を希望する人が多いが、金を稼ぎたいというより辞めて何をしてもいい自由を持て余したくないというのが大きい気がする。

 

さて、もしも会社がなくなったらどうするか。

理想は家賃の安いところに引っ越して、釣りや山菜採りで支出を抑えつつ、投資運用で日銭を稼ぐ。今はなかなかできない勉強もしたい。

ただ、親族の手前をあるから再就職せよという圧力もあるだろうな。自由業で生きていくというのはまだまだハードルが高い。その葛藤に耐えられるかが問題だ。

そんな日が来るのだろうか。