クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

下降する身体との向き合い方

服部文祥北海道犬旅サバイバル』を読んでいる。

デビュー作『サバイバル登山家』で、イワナを咥え、ギラギラした目つきで写っていた姿から20年。身体能力が下降線に入り、身体的表現者としての「引退試合」として臨む旅として北海道の無銭サバイバル旅を選んでいる。

20代の頃、30代の先輩から「30になると大変なんだぞ!」と言われ、同じ先輩から10年後に「40になると大変なんだぞ!」と言われた。その先輩の出っ張った腹を思い出すと、服部さんなんぞは肉体的に遥かに若い気もするのだが、本人にとっては全盛期から下り落ちる感覚を複雑な感情で受け止めているのだろう。

年齢的な衰えをどう受け止めるか。それは人それぞれだろう。

「もう年だし」と言い放つ人もいるし、「まだこれなら若いのに負けない」と粋がる人もいる。私もまだ長距離走なら20歳の自分より速いと粋がっているし、経験と頭脳はまだ伸びるはずと信じている。

それが決定的に落ち始めた時にどう向き合うか。それはひいては「死」と向き合うことでもある。

服部さんは登山という身体表現で50歳までを生き、そこから次の数十年をどう生きるか、そしてどう死にゆくかを模索しながら北海道を旅している。

私もいつかそんな旅をするのかもしれない。

百科事典って必要?

相方が学校で百科事典の使い方を授業でやらないといけないという。

不思議なことに「百科事典の使い方」ということが文部科学省のカリキュラムに入っているらしい。大人が日常的に使っているのならともかく、使ってもいないものを子どもに教えるとは妙なものだ。

この情報社会に百科事典はそもそも必要なのだろうか。

私はわりと紙の本で調べる方だったりする。仕事で『六法全書』とか『会計六法』とかもひっくり返すし、ついつい該当箇所の前後も読んでしまう。

探したいものをピンポイントで表示するネットの優位性は理解できるけど、法律や規則の場合、該当箇所の続きに「但し、〇〇においては・・・」などという文が続いていないとも限らないので、紙の方が見やすい。

では、百科事典はといういうと人生の中で数えるほどしか使った記憶がない。大学生の頃、歴史の文献を読んでいてわからないものを調べたくらいだ。歴史学の用語を調べるのに百科事典は明らかに力不足で、半分以上の確率で載っていなかったし、説明も不十分なことが多かった。

私の世代でそんな感じなのに、百科事典の調べ方なんて今さら習っても仕方ないように思える。

 

さてさて、そんなことを相方に言ってみたのであるが、相方は学習指導要領を守らねばならない立場上、授業をしたのだという。

ただし、百科事典の出版元や教育業界の雛形どおりでなく、ウェブサイトとの比較をやったらしい。

百科事典の出版元はウェブサイトには情報の裏付けがないのだという。ただ、百科事典だって人が書く以上は誤りがあるし、情報も古くなる。それに新しい情報は載っていない。情報に「絶対はない」ということを授業の趣旨にしたらしい。

果たしてその趣旨は伝わっただろうか。

忖度しない力

最近YouTubeの「有隣堂しか知らない世界」にはまっている。

R.B.ブッコローというミミズクのキャラクターに有隣堂のさまざまな商品を紹介するという構成の番組で、主に本関連と文房具を取り上げている。

取り上げているネタは作家であったり、ガラスペンであったりとニッチな範囲で、それはそれで面白いのだが、このブッコローの忖度やヨイショしない感じがいい。紙の地図を取り上げれば「グーグルマップでよくない?」と言い、レクサスに乗っても値段を聞いて「たっか!」と言い放つ。

それでいて人を不快にしないのは絶妙に視聴者の声を反映しているからだろう。

10年ほど前から「忖度」という言葉が人口に膾炙するようになった。

私は受験勉強用の熟語集で見て記憶したくらいだから、そんなに頻繁に見る言葉ではなかったはずだ。意味は「相手の気持ちを推し量ること」だから本義として悪い意味ではない。

これが転じて偉い人への持ち上げだったり、考えの先回りだったりするようになったのはいつからだろう。いや、いつからかと言えばずっとだったのかもしれない。特に上位者との摩擦を避けるのはこの世の倣いだ。

しかし、「忖度」という言葉が出てきた背景には、偉い人の気持ちばかり気にして息苦しくなっている人の内情があるように思える。

ブッコローの忖度しない物言いが非常に気持ちよく感じられるのは、言いたいことを言えない。それでもその心をも押し殺している息苦しさを少しだけ解放してくれるからかもしれない。

転職活動とウォーキング

土曜日は久しぶりに会社を辞めた先輩家族と会った。

聞けば辞めてから転職活動をして、会った前日に職が決まったらしい。通常、辞める前に次の職を決めておくケースが多いのだが、職種も絞り込んでいたので焦らず探したのだという。

何にしてもめでたい。

転職活動中は毎朝川沿いをウォーキングしていたようだ。

朝の8時くらいにウォーキングとなると通学する小中学生と鉢合わせになることが多いらしく、「この人何してるんだろう」と露骨に言う子もいてマイったので、時間を変えるようにしたらしい。

平日の日中、大人は働くべしというのが子どもたちにとっての常識であり、その常識を外れた大人は不思議な存在だったみたい。もっとも土日や深夜に働く人もいるわけだから、朝にウォーキングしていても働いていないとは限らないものだが、世間の常識には適合しないということになる。

 

転職歴の多い相方に言わせると、平日世間様が働いている中で外に出るのは怖いのだという。世の中が活発に動いていく中で取り残された自分が道の脇で呆然と見送っているようで、たまらなく焦りを感じたらしい。

先輩は転職活動中に今までできなかった勉強をいろいろやっていたようなので、いわゆる「ニート」とは全く違うのだが、それでも焦りはあったという。

うーむ。

自分もそんなときが来るのだろうか。その時焦りに耐えられるだろうか。

今から来るかわからない未来を想像して不思議な気持ちになっている。

韓国ドラマと結婚

昨日、ちきりんさんのツイートを見て笑ってしまった。

韓国の合計特殊出生率の話で、日本が1.2人に対して0.72人なんだそうだ。ソウルに限るとなんと0.55人。それに対して「韓国ドラマを観ているとみんなめっちゃ情熱的に恋愛してるぽく見えるけど、実際は結婚しないし子供も産まないのね。」とコメントしている。

なるほど最近、電車の中で韓流ドラマを観ている人が多いが、美男美女だらけで、それはそれは情熱的な恋愛をしているようである。

中にはみんな20代の美しき男女ばかりの会社なんかが登場していて、「そんな会社あるんかいな」というツッコミとともに、「こんな会社あったら自分などいたたまれないだろうな」などと感じてしまう。

しかし、少子化ということはドラマの恋愛と実際の結婚は別物らしい。

日本で少子化が進んだのは1990年前。ちょうどバブルの頃だ。

当時のいわゆるトレンディドラマもある意味で今の韓国ドラマと似ているかもしれない。キラキラした男女がドキドキ、ハラハラの恋愛を繰り広げる。

わが両親などはお見合い結婚だから、1980年くらいまでは結婚とはすなわち出会いであり、会って「まあいっか」となれば結婚していたようだ。荒っぽい言い方のようだが、深く考え過ぎると結婚なんてできないのである。

そう考えると日本の90年代以降も現代の韓国も恋愛と結婚は別であり、ドラマのキラキラ恋愛を見つつも結婚について深く深く考えるようになっているのかもしれない。

 

ちなみに私は結婚そのものは遅かったが、それは何も考えてなかった遅くなったのであり、深く考えなかったから結婚できたと言える。

未知の未来に突き進むには考えないことも時に必要だということだろうか。

なぜ歴史は面白い?

岡本隆司袁世凱』を読んだ。

袁世凱清王朝末期、軍閥の総帥で、辛亥革命後に中華民国の初代大総統となった人物である。本国中国でも日本でもなぜかあまり評判は良くない。清朝末期のどさくさに漁夫の利を得たように権力に座に着いたように見えるからだろう。

毀誉褒貶の激しいこの人物の実際を辿るのが本書である。

ざっくりと書いてしまうと、朝鮮半島での騒擾や列強の進出などで揺れる清王朝の中で、常にキーマンになっていたのが袁世凱だったようだ。しかし、それは必ずしも彼が狡猾に立ち回ったからというのでなく、「なんとなく」そういうポジションになっていたという。

歴史が面白いのは、必ずしも英雄が知略武勇で築き上げているわけではないことだったりする。一人の人物が行うことというのはたかが知れていて、意外といろいろな人物の思惑が重なって「なんとなく」こうなっちゃったというケースが多い。

歴史学はあくまで科学的に歴史的現象を分析するものだから、歴史小説好きからすると物足りないかもしれない。

ただ、私なんかはスーパーマンが歴史を作っているのではなく、標準サイズの人物たちが歴史物語を織りなしていることに面白みを感じてしまう。

 

中年太りにならないために

先日、マラソン前にぶっ倒れるという失態を犯して、なんとなく気持ちが宙ぶらりんのままでいる。マラソンで20代の連中を打ち破るという目標があったのが、身体だけ仕上げて本番に臨めなかった。ただ、このまま放置していると身体がふやけてしまうので、次なる目標が必要となっている。

「中年太り」は40代前後から来るという。そうすると不惑を迎えた今が剣が峰。勝負の時と言えそうだ。

妙なもので私の兄弟は3人が3人とも痩せている。親は太っているので、別に太りにくい体質というわけではなく、共通しているのは必要以上に食べないというくらいだ。

私も先日風邪を引いて寝込んだ時は1日1食くらいになってしまった。体調の問題ではなく動いていないとどうも食欲が湧かない。

周囲を見渡しても中年太りになっていない人は消費する分だけ食べている気がする。私もこの頃は運動した時くらいしか「お腹すいた~」とならない。

そう考えると、別に中年太りにならないためには努力が必要というわけではなく身体とどう向き合うかのような気がする。のべつ空調が効いたところにいたりすると身体性を失った自分がいて、余計に気を付けねばと感じる今日この頃である。