クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

友達の作り方

普段、読書は好きだがマニュアル本やHow to本はあまり読まない。特に自己啓発本のような「こうしなはれ。しないからあなたはアカンのです」といった本は心の負担になるので嫌だ。

ところがスマホになってからは困ったらすぐに検索するようになった。法律から業務用機械まで、行政から名も知れぬ個人の記事まで何でも載っている。

堕落するなぁ、記憶力が落ちるなぁと思いつつも何かと検索してしまう。


しかしネットにはいろいろな情報、虚実曖昧なものが溢れているものだ。それに、書籍なら売れないものは作らないが、ブログなら関係なく掲載できる。このブログもその一つではある。

最近「友達の作り方」という記事を見てみた。「そんなもんにマニュアルはいらんだろう」という意見もあるだろうけど、案外こういう記事が面白かったりする。


あるサイトに「とにかく話しかけよう」と書いてある。まあそうだろうな。

ただ話しかけるのが苦手だから悩む人も多い気がする。長く話せない人はどうしよう。いきなり「友達になりましょう!」という人はいないんじゃないかな。

まあ話ができる相手が友達なのだから、話かけねば始まるまい。


「こんな趣味はいかが?」という具体的な提案をしているサイトもあった。

確かに社会人になって転勤になるとそれまでの人脈や友達関係から切り離されることが多い。趣味が一番共通の話題をもたらしやすい。

料理、英会話、ボルダリングなどなど。職場は利害関係にある集団だから、それとは隔絶された友達がほしいというのも当然の成り行き。

私もボルダリングジムには行くが、静かに壁を見ていることが多い。もっと頻繁に行って、レベルを上げれば知り合いも増えるだろう。友達目的の趣味はあてが外れそうな気もする。過度な期待をしないならいいかもしれない。


SNSやサイトを使うというのもあった。友達作りサイトなんていうのがあるらしい。ちょっとこれはついて行けないぞ。

まあmixiFacebookも友達作りサイトと言ってもいいかもしれない。要はきっかけ作りと割り切れば良いとは思う。ただ、Facebookの“友達”って本当の意味で友達と言えるかはやや疑問だ。ジャイアンが「心の友よー!」と叫ぶのに近いように思えるのだ。単に都合の良い時の友達にされないように気をつけないといけない。


あとは個人的なお話が載っている記事もある。

そもそも友達作りに普遍性はないのだから方法を知りたければ個人的な話を見て自分を勇気づけるというのが早道かも。


しかし、いろいろ見ているとぶつかる疑問が「友達って何だ?」ということだ。学校時代は一緒に昼ごはんを食べるとか、登下校が一緒とかあるが、それでも本当の友達と言えるか疑問になる子も多いという。大人になれば利害関係で繋がる人を友達と呼ぶかも疑問だ。

鴻上尚史さんが「おみやげ」を与え合う関係が友達と書いていた。なかなか含蓄である。ここで言う「おみやげ」とは、物だけでなく言葉や精神的なものも指す。この人の笑顔を見るとホッとする、なんかも「おみやげ」を受け取ったことになるという。

そう言われると、自分は数々受け取っている自信はあるものの、与えている自信はあまりない。「これって、ひょっとして片思い?」という思いも湧いてくる。


さてさていろいろ見ても結論が出ない。最後に個人的まとめを書いてみよう。

私が周囲の人を見る中で、友達と言えるのはシンプルに「尊敬できる人」だと思う。能力が高いという人もいるし、いい性格だなという人もいる。

友達の作り方は人それぞれだが、相手への敬意をビビビッと伝えれば相手も応じてくれるんじゃないだろうか。一方で他人に敬意を持たない人はずっと友達ができないと思う。相手を尊重することに始まるというのが持論だ。

何?そんなに簡単じゃない?まあ私もそんなに友達が多いわけではないよ。

バイリンガル

正月に実家へ帰って1年ぶりに弟と会った。去年は半年イタリアの大学で過ごし、南アフリカブルガリアの学会などにも参加したらしい。世界中飛び回ってエンジョイしている。

彼はイタリアへ行ったのを機にイタリア語の勉強を始めたという。語学は彼の趣味で、日本とアメリカの大学で勉強していたので日本語と英語はほとんど何の問題もなく使える。大学時代から独学でドイツ語とフランス語をやっていたので、これらは日常会話以上はできるそうだ。イタリア語は始めたばかりだが、ラテン語系言語は根が同じなので、挨拶やちょっとした会話くらいはできるようになったという。我が弟ながら気味が悪いほどだ。

二ヶ国語ならバイリンガルで、五ヶ国語をしゃべることができる人はペンタリンガル。あまり聞いたことがない。

 

その弟がイタリア滞在中に地下鉄を利用した際、地元のおばさんに話しかけられたことがあった。日本人のオタク系ラガッツォ(イタリア語で「少年」)がポツネンと立っているのが不安に見えたのかもしれない。ただその"ラガッツォ"がイタリア語で話すと途端に彼女は饒舌になった。そのまましばらく見知らぬ者同士話し込んだという。おそらく片言でもイタリア語で話したことがきっかけになったのだろう。

アメリカ留学中はルームシェアした人がフランス語圏の人だったので、会話はフランス語でもやっていたらしい。ある日「君のフランス語は英語よりうまいねぇ」と褒められて、逆に英語は下手なのかとショックを受けていた。

いずれにしても語学が得意なのは大変羨ましい。

 

そんなお前はどうだと言われると英語すらかなり怪しい。趣味で洋書を読むが和訳を併読しないと細かいところがわからない。

大学時代に第二外国語としてやった中国語もお手上げ。漢文は得意だったので何とかなると思ったら、発音がさっぱりわからなかった。

何が得意なんだと言われれば日本語である。そんなことを書いていると「アホか」と殴られそうだ。ただ、出身は関西で今は関東にいて、普段は東京・神奈川言葉で話している。地元に帰れば関西弁だ。一時広島にもいたので、多少の広島弁ならできる。

「これでトライリンガルだ」と言うと人がバカにするだけなので言わない。しかしながら、言語を共有することで生まれる親近感は確かで、特に東京圏内のように他府県民出身者が大半を占める都市はわずかな接点、共通点に頼る傾向にあるように思える。今後外国人が増えればどうなるだろう。

登山に行くと、下界にはない登山者同士の親交がある。同好の士であると同時に登山の話題、「山語」を話す同族という意識が働くからと思われる。

 

話は変わるが、10年ほど前の冬に山形へスキーに行った。その時父親が山形で単身赴任をしていて、そこに遊びに行ったのだ。

夜は雪の積もる道を歩いて焼肉屋に行った。焼肉屋はチェーン店とは違って、普通の民家の座敷に七輪を置いたような店で、客も大半が地元民のようだった。給仕をしてくれるのは80近いのではないかと思われる腰の曲がった女性で、多少耳も遠いのか、客は声を張り上げて注文するというなんともすさまじい店である。

ただ、焼肉は絶品だった。山形牛に辛口でニンニクの効いたタレ。肉は魚のように鮮度を云々言われることは少ないものの、この店では本場の味と感じた(山形牛じゃなかったらどうしよう)。

隣の団体客が去って、少し静かになると件の女性が腰を曲げて空いた席の皿を引き上げに来た。私の側を通り過ぎる途中、彼女は私に向かって何事かの言葉を発した。訛りがきつくて一言も聞き取れなかったが、何となく言っていることは分かった。

「こんなばあさんを『お母さん、お母さん』と呼ぶなんてなぁ」

そう言って皺を寄せて笑って通り過ぎて行った。

1つの単語もわからない言葉を聞き取るのも、また新しい言語を習得したのと同じではないかなと思いながら私はビールを口に含んだ。

オクさん、カミさん

「最近は事務職希望の男の子もいるんだって」

人事担当者の雑談が耳に入ってきた。「草食系」なんて言葉が出てきた頃なのでそれほど古い話ではない。話していた人もさほど年配ではない。しかし、事務は女性の仕事という固着した意識があるらしく、その人は「世の中変わったものだ」と言うかのように呆れたような表情をしていた。

男女雇用機会均等法の施行から30年以上経っても基本的な社会の仕組みや意識は変わってないらしい。女性の営業は増えたが、最初から事務希望という男性を受け入れられない人が一定数いる以上は「均等」にはなってない。

 

一昔前、一部のフェミニストが「妻を奥様と呼ぶのは女性を家庭に閉じ込める考えから来ている」と主張していた。それでは何と呼べばいいのかと言えば、妻なら夫との対義語だから良いのだそうだ。

ただ、夫婦という言葉は夫が先に立つから許せない、と難しいことを言う。「嫁」という言葉も家に括り付けられているからよろしくないとのこと。

しかし、他人の妻を呼ぶのには何を使えば良いのだろう。やはり「奥様」くらいしかない。夫については「旦那さん」くらいしか語彙が見つからない。

 

ある女性の先輩は夫のことを「相方」と呼んでいた。なるほどこれなら男女共用できるし、対等な表現だ。ただ、そのことを他の人に話すと「これから漫才するみたい」という反応が大半で、今でもそう呼んでいるかは謎である。

韓国人の友人は「嫁」と、多くの日本人と同様の呼び方だった。

ちなみに私の父は外で「うちの”wife”が」と話していたら母から禁止令が出た。気持ち悪いとのこと。

 

刑事コロンボ』では何かと「うちのカミさんが」という台詞が出てくる。

もちろん和訳時にそうしたわけだが、「カミさん」という訳はなかなか秀逸だ。日本人は古来から怖くて畏れ多いものに「カミ」を付ける。カミナリやオオカミなどが典型で、人の力ではどうにもならないものである。

妻を「おカミさん」と呼んだルーツは詳しく知らないが、敬意と恐懼の念は感じられる表現ではある。

ただ、みんながみんな「カミさん」と呼ぶことはないだろう。「おカミ」も「お内儀」と書くとまた嫁と同じ論争になりそうだ。もちろん「内」に閉じ込めているということで。

 

思うに言葉は歴史の蓄積なのだから男女同権用語には無理がある。男女同権の考え方そのものが現代のものであり、その現代にあっても完全ではないのだから。

男と女は違う。問題は互いを否定することで自分の側を肯定しようとしないことだ。言葉にしないでも互いを「カミさん」として尊重することが必要ではないかと思う。

芝刈り

30年近く前にアメリカにいたころ住んでいたのはメゾネットタイプのアパートだった。壁を隔てて隣と接しているが、2階建てで基本的に独立している。玄関から廊下を通り抜けるとリビングで、その外には青々とした芝生が広がっていた。時々リスやケンタッキーの州鳥であるカージナル*1が姿を現し、夏には蛍が乱舞して部屋に入ってきたりした。

日本の少々の田舎よりも自然豊かで、それでいて世界一の経済大国である。純粋にアメリカは凄いという印象を受けていた。

庭に芝というのは見た目の良い反面、刈る手間が発生する。幼い私には無縁の話だが、近所で巨大な芝刈り機を操作する大人はしょっちゅう見かけたし、母親が「芝を刈らない家はズボラだと思われる」と話していた記憶がある。

 

しかし、ここからの話は芝刈りには一切関係ない。下手くそは芝ではなく地面を掘ってしまうゴルフの話をしようと思う。

今、ゴルフクラブがコートを入れる棚の奥に入っていて処遇に苦慮している。もともと私ではなく父が買ったもので、「もう使わないからやる」と言われて引き受けたものだ。それを持って1度だけコースに出たものの、それ以降やっておらず、棚の肥やしとなって10年近く経った。もう古いので捨てるにしても金はかかり、万が一断れないお誘いがあった場合を考えると捨てられずという状況が続いている。

中学と大学の一時期テニスをやっていたので球技に対して一定の理解はあると思う。ただはっきり言ってゴルフは嫌いなのだ。

 

まず金額が理不尽。

唯一のゴルフ体験の時のお値段は2万円プラス交通費。場所は千葉で、早朝に先輩に車で拾ってもらい、アクアラインを使ってアクセスした。社内のコンペだったのと、気の置けないメンバーだったので、右へ左へわちゃわちゃと歩き回りながら140打以上かかって完走(と言うのかな?)した。結果はダントツのべべた。終わったら風呂入って表彰式があって再び先輩に車で送ってもらった。

結果はともかくそれなりに球打ちは楽しい。テニスと違って静止している球を打つのは楽なのだが、ラケットとボールよりはるかにクラブも球も小さい。

ただ一定のフォームでまっすぐ打てばそれなりのスコアになることだけは理解した。下手くそは打つたびに身体の軸や打点がぶれるので左右のとんでもないところに飛んでいく。それなりに上手い人は安定したフォームで振っている。プロレベルになればクラブの選択からクラブごと、シチュエーションごとの振り方があるのだろうが、100打前後を目標とするサラリーマンゴルフ程度では関係はなさそうだ。

一方で素人ゴルフに体力は関係ない。とにかくまっすぐ飛ばせば、体力差は関係なくある程度練習した者がスコアを出せる。これがビジネスゴルフには良いところなのだ。ボルダリングとかマラソンみたいなスポーツを接待に使えば、実力差はすなわち体力や身体能力の差になって盛り上がりに欠けるだろう。

しかし1日球打ちをして3万円はなかろう。テニスやフットサルなら半日遊んで、打ち上げをしても1万円しない。登山なら2泊3日で山小屋泊まりができる。

キャディーさんへの心づけなんかが必要だったりして、出さないとどんな扱いを受けるのか知らないが、とにかく金がかかるなあと思うと他の遊びを選んでしまう。

 

嫌いな理由の2つ目は成金趣味的な感じ。

父親からゴルフ場へは「襟付きシャツ」行けと言われた。なぜかと言えば「紳士のスポーツ」だからだそうだ。

自分ではプレイしていないが、名門というゴルフ場にも2回行ったことがある。1回は大阪で、もう1回は伊豆だった。両方とも顧客の接待目的。伊豆のゴルフ場は海の見える高台にあり、2つあるコースはいずれも私の知らない有名な人が設計したそうで、プロの大会も行われている。

ゴルフ場にはホテルが併設してあり、ゴルフとホテルの受付が一体になっている。受付棟には黒光りする床、テーブル、上には巨大なシャンデリアが下がっている。ホテルはかなり古いらしく、漆喰の壁はところどころひび割れていて天井は異常に低い。平均身長160cm規格といったところ。

このホテル・ゴルフ場に2日間滞在して接待ゴルフコンペの下働きをした。別にこのゴルフ場に恨みはないのであくまで名前を書くのは控えるが、歴史のある黒い床に立つゴルファーは鹿鳴館に集う紳士淑女のように見えた。タキシードとドレスを来た日本人の鏡に映った姿は猿という風刺画、失礼な話が紳士淑女の猿真似と言おうか。

前夜祭はホテル内のパーティー会場で行い、2次会はすぐ横のフロアで行った。2次会はもくもくと煙が上がり、前ではカラオケという具合でそこに紳士は1人もいなかった。

 

低山ハイキングをしているとよくゴルフ場にぶち当たる。日本のゴルフ場は山や丘に築かれるので、登山に行くと途中どこかでゴルフ場のコースや看板を見かけ、「ここから入っちゃダメざんす」とばかりに金網が張られている。しかたがないのでゴルフ場を迂回する道を探さなくてはならない。

プレイヤーとしてゴルフ場のように芝生に池や林がある中を歩くのは気持ちが良い。しかも迷わないように道しるべも豊富にあり、休憩所も随時ある。アウトドアをやらない人も安心のハイキングコースになっている。

しかし、それは金網の中のいわば箱庭を散策しているようなものだ。の少ない山域から下山してきてぶち当たるゴルフ場は究極の不自然に感じられる。

しかもゴルフ場では異常に虫が少ない。プレイに邪魔な虫は薬で死滅させられている。日本で芝生というのも不自然だ。標高2000mくらいまでは膝上くらいの種々の草や低木が繁茂していなければならない。所詮は擬似自然、擬似ヨーロッパの景色を創り出しているだけなのだ。

登山をやる人間としてはゴルフ場が自然破壊であることとともに、「金網の中の散策とはねぇ」という思いを持ちながら脇を通り過ぎてしまう。

 

さんざんゴルフの悪口を書いてしまった。ただ、何かの拍子に始めなくてはならならくなるかもしれない。セールスによれば「何度も一緒に飲むより1回のゴルフの方が取引先と仲良くなれる」とのこと。「芝刈り」が上手いから取引相手として信用できるわけではないだろうに、日本のビジネスは人脈重視なのだから仕方がない。

「おじいさんは山へ芝刈りに。お父さんも山へ芝刈りに。ぼくも山へ芝刈りに」

事務所で隣に座っていった2歳下の通称「つうふう君」が突然おどけた調子で語りだした。明日、彼は親子3代で「芝刈り」へ行くらしい。

私もいざゴルフをやらざるを得ない時は山へやけに高コストの芝刈りに出かけるくらいの気分で臨むしかない。

*1:和名はショウジョウコウカンチョウ

お天気下駄

冬になると週末の天気予報を見る回数が増える。今週末は登山ができるだろうかと、特に計画していなくても見てしまうのだ。

なぜ冬かと言えば、冬は晴れ雨雪といった予報だけでなく風予報が重要で、風が強いとなればスッパリ諦めないと命にかかわる。「さて、そろそろ雪山に行きたいなあ」という時になかなか行けないことも多いので、逆に行ける時は行かなくてはソンではないかと思ってしまう。根が貧乏性なのだ。

 

日本気象協会のサイトtenki.jpを見ることが多い。レジャー天気という中に山ごとの天気と高度ごとの風予報が出ている。

ただし、天気は対象の山の麓にあたる町や村なので若干注意が必要だ。麓が晴れでも山頂付近には雲が発生している可能性がある。私の場合、その山の東と西、冬なら少し北の予報も見る。湿った空気が流れ込んでいれば周囲のどこかで雨や雪の予報になることが多い。上空の風が強ければ山頂付近だけ曇り、下が晴れていることが多く、逆に上空の風が弱ければ、上は晴れていて下だけ薄曇りというケースもある。

天気予報士ではないし、乏しい経験則なのであてにはならないが、冬になると天気予報を眺めては「この週末は登れるな」と感じる日に仕事があって悔しい思いをし、「これは登れない」となると少しホッとしたりする。

 

「冬の単独登山は危険です」と山岳雑誌や登山入門書には書かれていることが多い。事実、滑落の危険も遭難して発見されない可能性も冬の方が夏より断然高い。

ただ、単独で冬山へ向かう最大のメリットは好天を狙って登れることである。何人かで予定を合わせると、予報が急転しても突然行くとか止めるとかできない。その一方で行ってみたら予想外に良くなったり悪くなったりということもある。

4年目の12月に西穂高岳を目指した時は、まさに計画しちゃったから出かけたという具合だった。登山は土日を予定しており、土曜日に西穂山荘に宿泊し、翌日曜日に西穂高岳登頂を目指すというスタンダードプラン。その週は暇さえあればtenki.jpを眺めていたものの、土曜日は曇り時々雪、日曜日は曇りという予報だった。

「行っても無駄かも」と思い始めた木曜日あたりから予報が変わりだした。土曜日は相変わらずだが、日曜日は曇りのち晴れ。早朝に小屋を発つと曇りのまま終わるかもしれない。しかし、下山する時には少し展望が開ける可能性が出てきた。とにかく登れそうではある予報になってきた。


登山メンバーは3人。1人の友人が車を出してくれたので、途中まで電車で行き、駅前で拾ってもらう。車内で雑談しながら車は中央道を通って甲府、松本を目指す。松本を過ぎたあたりだろうか、雪が降り出した。北アルプスの山嶺を白雪が覆っている。路面には雪がなく車は快調に進むものの、この日にこれ以上降ってほしくはない。1人の計画ならこの日は止めただろうか、それとも行っただろうかという考えが去来しているうちに新穂高温泉に到着した。

新穂高ロープウェーを降りると小雪がちらついていた。空が曇っていれば小雪くらちらつくだろう。3人ともフードをかぶって歩き始める。上も下も白。霧は出てないし、トレースははっきりしているので迷う心配はない。風もほとんどない。今夜ドカッと大雪が降らなければ大丈夫だろう。

 

小屋に着いたら早速ビールと雑談。小屋は少し早いクリスマスムードに包まれている。外の空は相変わらず白いままで、「小屋泊まりでよかった」などと口々に言い合った。

日が傾く時間になると、窓を通して外が金色に輝いていることに気付いた。ナンダナンダ。外に出てみると突然西の空の雲が切れ、夕陽が穂高に突き抜けてきた。明日は朝から晴れるかもしれない。

夜、小屋にある天気予報を表示しているモニターが目に入った。高気圧を示す「高」マークは北アルプスを上空に向かっていた。

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翌朝、頂上に向けて夜明けの少し前に出発。

その日の夜明けはいつもと違った。まるで瓶に詰めたように周囲を取り巻く空気に一切の澱みや濁りが混じっていない。東の空は太陽の到来とともに黒から蒼、オレンジに変わり、西の空は桜色に染まり始めた。

小屋を出てすぐに日が蝶ヶ岳方面から顔を出した。光の筋が白い地面をなでるように走っていく。時折舞い上がる雪の粉にあたるときらきらと光をまき散らす。

3人の中で先頭を行く私は後から来る2人を待ちながらも、光の圧倒的な演舞を呆然と見ていた。

 

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西側の笠ヶ岳方面

 

 光の舞いはほんの20分ほどで終わる。その後はいつもさほど変わらない景色が広がるのだが、この日は違った。空に雲がない。ぐるり見渡しても一片の雲もない。この世から雲という物質が消えかのような群青の空の下にただ白い穂高岳が腰を下ろしていた。

「これだから雪山はやめられない」

後ろで友人の1人がそう呟いた。

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4年前12月に登った西穂高岳より前穂高岳方面

「勝負は下駄を履くまでわからない」と言うが天気もその日にならなければわからないことが多い。天気予報も万能ではないし、万能ではないから登山は面白いと言える。

下駄でも飛ばして週末の天気を占おうか。

冬の甲斐駒ヶ岳

今年も成人の日の3連休に冬の甲斐駒ヶ岳に行ってきた。韮崎駅から路線バスで道の駅はくしゅうで下車。そこから1時間歩いて竹宇駒ヶ岳神社から入山。黒戸尾根から頂上を目指す。

黒戸尾根は累計6回目、冬だけで5回目だ。最もシツコク登っているルートである。なぜこれほどシツコクこの坂を登るのだろうか、自分でもよくわからない。

 

道の駅はくしゅうの脇には竹宇駒ヶ岳神社までの参道を示す石門がある。門と言っても扉はなく2本の石柱が道路の脇に立っているだけで、その間からは甲斐駒ヶ岳の白い頂を遠く臨むことができる。

「参道」を進むと脇には幼稚園、小学校、老人ホーム、寺と墓地が登場し、まさに「ゆりかごから墓場まで」を体現する道となっている。通り過ぎる集落の民家は屋根瓦に縁側を備えた旧家で、井上靖の『しろばんば』に登場したような土蔵を備えた家も多い。バスを下りたのは9時20分だが、時折通り過ぎる地元の軽自動車を除けばほとんど人がいない。人気のない田舎道を黙々と歩く。

集落の奥で左に方向を変えると、今度は別荘のような家が並ぶエリアになる。こちらも人気がなく、一度猿の群集に出くわしたことがある。別荘地の中を進み森の奥に入っていくと尾白川渓谷と甲斐駒ヶ岳神社の大きな駐車場に行きつく。

 

駐車場には皇太子殿下登頂の碑がある。平成2年に黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳に登頂されたらしい。それにしても立派な碑だ。現在の皇太子殿下は山好きとして知られているが、今年即位してからも登山を続けるのだろうか。

オーストラリアの首相がスキューバダイビング中に行方不明になったという話を聞いたことがある。一国の代表がリスクのあるスポーツを嗜むのはその国の文化を示していて面白い。

日本の安全安心、リスク嫌いの文化を変えるためにも登山はぜひ続けてほしい。

 

竹宇駒ヶ岳にの本殿前に立つと鈴の音と何かの歌が聞こえた。祝詞でも上げているのだろうか。さらに近づくと3人の男女がいて、先頭の男性が般若心経を唱えながら鈴を振り、後ろの2人の女性は手を合わせて頭を下げていた。新年だからだろうか。私はそっと彼らの後方から本殿に手を合わせて登山道に入る吊り橋を渡った。

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黒戸尾根に向かう吊り橋、尾白川を渡る

 

 麓から甲斐駒ヶ岳へ真っ直ぐに突き上げる黒戸尾根は深田久弥が「日本アルプスで一番つらい登り」と評している。標高差が大きく長いのはもちろんのこと、登山道は一直線に頂上へ伸びていてほとんどが登りとなっている。

 登山道に入って2時間以上は全く雪を見なかった。道すがら側溝の水が凍っていたのでそれなりの冷え込みだったはずなのだが、今年はかなり雪不足のようだ。落ち葉をザクザク蹴散らしながらしばらく無心で歩く。

雪は岩の上を歩く「刃渡り」の直前くらいからぼつぼつ現れた。道が凍り始めたところでチェーンスパイクを出す。これはチェーンにステンレス製の短い歯の付いた滑り止めで、歯が短い分雪の少ない所でも歩きやすい。歯の長いアイゼンで歩きにくい場所では軽くて有効なアイテムだ。

刃渡りからは薄曇りながら富士山や八ヶ岳が見えた。今日も遠くこれらの山にも同じく登山者が蟻のように登っているだろう。

刃渡りを過ぎると再び樹林帯が続く。ひたすら登りなので汗ばんだ背中が冷たいが、この日は風が少ないのは幸いだった。

 

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刃渡りを行く

 冬なのに人は多かった。初めて来た5年前の12月は七合目にある七丈小屋に至るまでに1人としか会わなかった。この日は小屋に着くまでに15人くらい抜いただろう。前日に山小屋に予約の連絡を入れると「混むと思いますが」と言われていた。

 七丈小屋の前の小屋番はとびきり無愛想なことで知られていた。私が5年前に行ったときはテント泊で、小屋番のおじさんは小屋の前で受付をし、「小屋にある水は使っていい。テント場にあるショベルは使っていい」などの業務上の連絡を済ませるとさっさと小屋に入ってしまった。小屋の前には1組の若い男女がいて、「テントにするか小屋泊まりにするか迷ってます」と言った。

テント場は小屋から10分ほど上に歩いたところにある。テント場にはたんまりと雪が溜まっていて、日暮れが迫る中で必死に雪を掻いてテントを建てるスペースを作っていると先程の男女が上がってきた。「やっぱりテント泊にすることにしました」と語った。その頃小屋は予約すら受け付けてなかったのだが、テント泊のつもりで来て、小屋に泊まろうとすると小屋番が途端に冷たくなると聞いたことがあった。おそらく冷たくあしらわれてテント泊にすることにしたのだろう。

その小屋番も一昨年の3月に定年を迎え、新しい管理者は現役のクライマーであり山岳ガイドの花谷さんが担っている。そのせいかちょうど1年前に来た時からアックスを2本ぶら下げたクライマーの小屋泊まりが増えた気がする。甲斐駒ヶ岳には黄連谷などのアイスクライミングのスポットがある。

 

五合目小屋跡には7、8人のクライマーがいた。黄連谷へは五合目付近から一度下って氷瀑を目指すので、この付近にテントを張ると都合がよい。ただし、ここも雪が少ないので水の確保が難しそうだった。

五合目から小屋までは梯子や岩のある急登となる。元々歩く速度は速いがすぐに息が上がる。ほんの5年前にテント泊装備で登ったと思えない。このルートの核心は小屋までではないかと思う。小屋跡から登ってわずかに下り、木橋を渡って登り返すとようやく白い壁の小屋が姿を見せた。

七丈小屋には2つの棟があり、第一小屋と第二小屋と名前が付いている。第一小屋には管理人の部屋や受付があり、第二小屋は宿泊場所のみで、自炊を行う素泊まり客は第二小屋が充てられる。狭い尾根に立っているので、収容人数は2つ合わせて30人くらいだろうか。私は自炊なので第二小屋の13番の布団を指定された。

第二小屋は満室だった。自炊は小屋の扉近くの三畳くらいのスペースと決められていたので、これは大変なことになると思っていたのだが、第一小屋からスタッフが現れて夕食の準備ができたことを告げると瞬く間に私を残して全員が第一小屋へ行ってしまった。

独り残った私は独りでラーメンを茹で、独りで食べ、独りで息をついた。

 

七丈小屋に泊まった人間は翌日二方面に別れる。一方はそのまま黒戸尾根を登り頂上を極め、他方は再び五合目まで下りて黄連谷などでアイスクライミングをする。黄連谷に向かう一団は午前2時に起床し、2時半に小屋を発って行った。

私は少々早いと思ったが、4時に起きて準備を始めた。ビスケットを齧り、昨日小屋でもらった水を飲み、不要な装備を置いて、ヘッドライトを付けたヘルメットを被って小屋を出る。小屋の前でアイゼンを付け、ピッケルと片手に持ち、星の散らばる空を眺めて出発。空気は冷えるがこれまでで一番風がないかもしれない。

小屋から数分歩くとテント場には2張のテントがあり、1つはあかりが灯っていた。まだテント泊の登山者も動き出していないようだ。

前日までに付いていたトレースはまだはっきりしていた。雪が少ないのは小屋から上も同じで、ほぼ夏道通りの道を行く。LEDライトが照らす雪がきらきら光る。冷凍庫作業用の手袋「テムレス」とインナー手袋を併用するが、手が冷えて痛い。時間が早いので東の空も暗いままで、甲府の街の光がちらついていた。

八合目はご来光場と呼ばれ、樹林帯を抜けて日の上がる東側が開けた場所だ。樹林帯を抜けると、前日の夜に降った雪と風でところどころトレースが消えていた。その日の一番手は道を付けなくてはならない。時々踏み固められた部分を外して膝がズボりと雪にはまってしまった。しかし、それが一番手の楽しみでもある。

 

八合目からやや細い稜線を歩きさらに上部を目指すと、岩の塔が出てくる。塔を登ることはできないので、岩と岩の間の雪の付いた側溝のようなところを登らなくてはならない。無雪期は鎖があり、足を載せるステップがあるのだが、積雪期は雪が詰まって急な斜面になっている。雪面にアイゼンの先を蹴りこみ、右手のピッケルの先もできるだけ固い雪に差し込む。

ここが一番の難所だ。軟雪に体重をかけて足元が崩れるとそのまま谷の奥まで落ちるかもしれない。 岩と氷のミックスのような固いルートより雪や土の軟らかいルートの方がむしろ危ない。

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黒戸尾根の難所(下山時に撮影)

ついに日が上がった。山は朝がいい。

雲海から頭を出した太陽が雪面を橙色に染めだす。空の縁が桜色に滲む。この瞬間のために山に登っていると言ってもいい。

日が出た時は頂上の50mくらい下だった。誰もいない、ところどころトレースの消えた斜面を登る。もう頂上の祠が見えている。

1年ぶりの甲斐駒ヶ岳。去年より疲れた気がした。

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黒戸尾根から見る日の出

 誰もいない頂上で山専ボトル(魔法瓶)に入れたスポーツドリンクを飲み、ビスケットを少々齧り、北岳仙丈ヶ岳・富士山と眺める。ここ5年は毎年登っているが、雪の付き具合は違っても山の形は変わらない。

以前、槍ヶ岳から穂高方面を撮影した写真が父の持っていた30年以上前の写真はがきと同じで驚いたことがある。同じ場所から同じアングルで撮れば当然ではあるが、山は見た目にはほとんど変わってなかった。いや、変わっていないことはないだろう。変わっていないように見えるほど大きいだけなのだ。

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頂上より仙丈ヶ岳方面

風はなく陽の光が暖かさを徐々に伝えてくれていた。それでも冬の3000mは寒い。飲み物で少し温まるとすぐに下山を開始した。

すぐに2人組みが登ってきた。「風がなくていいですね」と少し言葉を交わす。風は明け方は北から吹いていたが、夜明けとともに止んだ。ただ下りは登りより滑落などの可能性が高い。

のんびり、慎重に、時々景色を写真に納めながら下っていると次々に登山者が上がってきた。今日のご駒ヶ岳神社の神体は満員御礼だ。

 

下山は登山より難しい。特に嫌なのは「核心」と書いた岩の間のルートで、慎重にアイゼンを雪面に蹴りこみながら後ろ向きに下りた。下りは足元が見えにくい上に掛かりがわかりにくくて非常に怖い。登りの人とのすれ違いにも注意が必要だ。とにかく人が来てようと焦らないことが肝心である。

核心部を過ぎるとのんびり下りとなる。これから登る登山者に山頂の状況を時々訊かれては答えていた。

「風はあまりないです。雪は少ないです。トレースはあります」

冬はみんな風が気になる。晴れているかどうかは見ればわかるが、風は下からではわからない。そして技術の有無を問わず先に行った者だけが知っている。

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小屋から頂上を見上げる

小屋に着いて、デポしていた荷物をパッキングしなおして再び下る。ここから特筆すべきことはない。アイゼンからチェーンスパイクに変えてのんびり下った。

これほどシツコク黒戸尾根を登る理由は何だろう。おそらく私にとって適度にチャレンジングで、適度にアクセスが良くて、それでいて極めて美しいからだ。しかし、なぜ美しいと感じるのかは下山する時になってもまだわからなかった。

登山口に着いたのは13時。バスの時間を考えると風呂に入るには時間が足りない。道の駅に着いたら今しがた登った山を愛でながら遅い昼食としよう。

背負い投げ

そろそろ引越しを考えている。今の住居に住んではや10年以上経つが、いろいろモノが増えた。最たるものは自転車で、1台は玄関、もう1台は部屋の奥で逆さになっていて現在2台ある。パソコンとスマホもここに越したころにはなかったものだ。一方で「冷風扇」という扇風機もどきは壊れて捨てたので今はない。生活用品はむしろ少なくなった気がする。

山道具は雪山を始めたのを機にウェアを中心にかなり増えている。その中でも1番増えたのはバックパック。越してきた時は80Lと30Lの2つ。今は大きいものから順に80L、58L、45L、38L、30Lの5つになった。1回の山行に1つ。背中も1つしかないのだからそれほど要らないようなものだ。しかし、どこからともなくむくむくと物欲が沸いてきていつの間にか増えてしまう。特に山に行かない期間に買いたくなる。

そんな風にして増えてしまった我が相棒のうち大型バックパック、3匹のサムライたち、を紹介したい。*1

 

1.ゼロポイント・エクスペディションパック80

今誰かが80L以上のバックパックを買いたいと相談に来たら、厳冬期にアルプス縦走をやるとかの用途を除いて、お勧めしない。登山の入門書を見ると「夏のテント泊なら60L、冬なら80L以上を持つようにしましょう」と書いてあった。その言葉を信じて80Lを買ったわけだ。

買ったのは22歳という元気な盛りだったので、「体力さえつければ背負える」と思っていたが、重かった。何しろ中身なしで3kg近くある。背中にはプラスチックのようなパネルとアルミの棒が2本入っていて、まるで背負子のような構造である。雨蓋も特大で本・地図・ヘッドライト・財布などの小物を楽々と飲み込む容量があったものの、入れすぎると手さぐりで探し当てられないくらいだった。

 

これくらい大きくなると自分の身体が隠れてしまう。イメージは蝸牛。背中に衣食住を全て詰め込んでいるような状態。

 大学最後の1月、石鎚登山の後に四国の一人旅した時のこと、徳島の景勝地大歩危小歩危に行った。冬なので水量が少なく迫力のない景色を眺めてから、次の目的地である祖谷渓に向かった。バス停で時間を見ると次は2時間後。少し躊躇したが、時間があるので行けるところまで歩こうと思った。おそらく後ろから見るとバッグが歩いているようだろう。車が脇をシュンシュン通り過ぎていく。

歩き始めて5分も経っただろうか。1台の乗用車が通り過ぎた。その車は少し先でUターンするとまた引き返してきた。道を間違えたのだろうか。するとその車はさらに私を通り過ぎてUターンした。

「なんだなんだ!」

車は再び私の脇に来た。50くらいの女性が運転しており、助手席にはその娘と思しき20代の女性がいた。

「どこへ行くんですか?」

彼女たちは祖谷渓の近くにある「かずら橋」へ向かう途中だったが、蝸牛のようにのそのそ歩く私を見て思わず引き返したらしい。2人は東京から旅行に来た母娘だという。そこで彼女たちの車に乗せてもらい、おまけに祖谷温泉に入って昼食までご馳走になった。

蝸牛バッグにもご利益がある。

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鳳凰三山に行ったとき

このバックパックはやたらに重い。「中身を軽量化すればよいではないか」という意見もあるだろうけど、いくらでも入る分、いくらでも入れてしまって結局軽量化は実現しない。しかも、中身を減らすとガバガバになってバランスが悪く、余計に疲れてしまう。

写真は夏に御座石鉱泉から鳳凰三山に登った時で、急な登りで疲れ切った時のもの。1泊2日の荷物は80Lもないので、脇のあたりがたるんでいて、結局軽く感じない。

最後に使ったのは6年前のキャンプで、単に大量の荷物を運ぶキャリアーとしたわけなのだが、そうなるとウェストハーネスが車の中でひたすら邪魔になって仕方がなかった。

かなり初期に買ったせいか悪口ばかりになってしまった。ただ、荷物が入ることにかけては随一なので、災害時にはこれに米を詰めて避難することにしよう。

 

2.グレゴリー・トリコニ60

南アルプスで80Lの荷物に潰されそうになったのをきっかけにようやく荷物の軽量化に乗り出した。気合と体力も徐々に軽量化されたということだろう。

アウトドアライターのホーボージュンさんによると彼は南米を1ヶ月にもわたって歩く装備をすべてトリコニ60にパッキングしたという。わずか2、3日を歩くのに80Lを使っている自分がバカバカしくなる。山道具に関してミーハーな私はグレゴリーを「アウトドアライター御用達バックパック」として崇拝していた。

 しかしながら、このトリコニも重い。80Lのエクスペディションよりましだがこれも2kg台の中盤くらい。軽量化を目指しているのにザックの自重が重いのは気が引けた。

 小川町のICI石井スポーツで、当初はマムートの比較的軽いモデルを選ぶつもりだった。早速店員さんに背負わせてもらったのだが、胸のあたりが妙に気になる。胸板の厚いヨーロッパ体形でないと合わないのではないだろうか。

次にオスプレーのイーサーというモデル。大きさのわりに軽量。ただウェストハーネスが貧弱で少し不安。これまで80L、25kgくらいの荷物を背負っていたので華奢に思えた。

最後にグレゴリーのトリコニを試した。値段が3万円以上するので物は試しというつもりだった。背負ってみると身体に合うという感じがする。なんというか赤ん坊が「もう離さない」としがみついてきたみたいに。私はトリコニを背負ったまま考えた。グレゴリーは「バックパック界のロールスロイス」と呼ばれるほど背負い心地に定評がある反面、値段もロールスロイスよろしく高価。

これまで肩が痛い、腰が痛いのを我慢してきた。グレゴリーがロールスロイスなら、これまではトラックみたいなものだ。迷ったが、社会人になって数年、これくらいは贅沢してもよい気がしてきて、気が付いたら店員さんに「これで!」と言っていた。

 

しばらくはどこに行くにもこのトリコニだった。

寝袋も新調してダウンにすると(これまで化繊だった)夏の2泊くらいは楽々だ。これまで80Lにパンパンだったのはなぜだろう。もはや前の荷物は背負い投げにしたくなる。

これを背負って最初に行ったのは北アルプス槍ヶ岳で、以降夏のテント泊縦走は全てこのトリコニとなり、エクスペディションはほぼお蔵入りとなった。

容量はSサイズなのでトリコニ60という名称だが58L。ただそれでも十分である。厳冬期も1人用テント、シュラフ、ガス缶・鍋、ダウンジャケット、アイゼン、ショベルまで入る。マット、ヘルメット、ピッケルはちょっと無理なので外付け。

バックパックの容量を減らせば荷物も必然的に減らせるものだ。

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北アルプス・徳沢にて

 

3.パタゴニア・アセンジョニスト45

トリコニで冬山を登っていた時、軽量化はほぼ完成だと思っていた。ここからさらに減らすためにはシュラフをグレードの良いコンパクトなものし、防寒着も根性でやや少なくするしかない。もうこれ以上は無理だ。

しかし、4年前、一緒に冬の仙丈ヶ岳へ一緒に行った友人は45Lのバックパックに個人用の全装備を詰め込んでやって来た。「ガチガチに詰めた」というパタゴニアのアセンジョニスト45は比較的小柄な彼女の体躯からしても小さなものだった。こうなると私の58Lなどまだまだ甘ちゃんだ。

彼女によると同じアルパインクラブに属するクライマーによってはアイゼンケースも邪魔なので、アイゼンはダウンジャケットでくるむ人がいるらしい。周囲は「ジャケットに穴が開くからやめろ」と言っているらしいが。

そんなエクストリームな人々に囲まれていると厳冬期装備を夏くらいの容量に納めることも当然となるらしい。

 

この山行の直後にパタゴニアの直営店で同じアセンジョニスト45を見つけた。

エクスペディション80がトラック、トリコニ60がロールスロイスだとすれば、アセンジョニスト45は必要最低限に削ぎ落としたF1。店の棚に積まれたものを持ち上げると、親指と人差し指でつまみあげられた。すかさず店員さんが話しかけてくる。

「いやー、それは結構大きいですよ」

「縦走やテント泊に使おうと思いまして」

どうやらその時私が背負ってきたボロボロの30Lバックパックの買い替えと勘違いしたらしい。その後のやり取りボロボロ君はまだ使うことを店員さんに納得させるには少々の時間を要した。

改めて見たアセンジョニストは45Lということでかなり小さく感じた。しかし、荷物の軽量化はある意味で決意次第のところがある。容量が45Lしかないとなればその分量に抑えるものであり、80Lあれば用もなく荷物を増やしてしまう。私はトリコニを背負い投げにして、この45Lに賭けてみることにした。

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北アルプス・夏の大キレット縦走時

このバックパック、生地はペラペラだが、背中にアルミフレームが入っていて型崩れしない。ウェストハーネスも薄いが、身体に密着させれば重量を支えるのには十分のようだ。

しばしば「大重量の荷物は腰で支えろ」と言ってウェストベルトが大仰なモデルが多く、先の2モデルもその類だった。しかし、このアセンジョニストは背中にしっかり密着させれば重量を支えることができることを教えてくれた。

 

上は夏の北アルプスを黒部湖から読売新道・西鎌尾根・大キレットを縦走して上高地に向かう山行をした時の写真。4泊5日、テント泊・自炊の装備を全て詰めると上部が膨れ上がった。アセンジョニストがうまくできているのは、45Lという表示ながら開口部にレインフライが付いており、上部の容量を少し膨らませることができることだ。夏の写真はほとんど終盤だったこともあり、上部はほぼ閉じているが、冬は下のようになる。

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八ヶ岳・美濃戸口にて

 厳冬期もなんとかこの45Lで対応できるようになった。

なんとも満足、満足なのではあるが、このモデルは現在廃盤になっていて、後継は40Lとなる。40で冬はさすがに無理かも。生地が薄いせいで私の愛用する45Lはどこかで崩壊するかもしれない。果たして壊れた時に次をどうしよう。今は戦々恐々として安易に背負い投げはおろか、腰掛けて休憩もできずにいる。

*1:ここに紹介するバックパックは2019年1月時点で全てリニューアルまたは廃盤になっている