クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

山を撮るということ

また社内報の表紙に写真が採用された。とはいえあくまで無給である。

今回はカナダ・カナディアンロッキーの山並みで、今年10月に撮ったものだ。私がカナダに行ったまま台風で帰ることができなくなったのは周知の事実なので、犯人は自明。新年号として出すのに、昨年の話を蒸し返されるのは必至となった。


私が登山や旅行の時に携わるのは一眼レフCANON EOS Kiss X4。子どもができたばかりのパパ・ママカメラとし知られる。今はX9まで出ているロングシリーズとなり、私の買ったのはもう10年以上前になる。

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最初は骨董品を扱うような扱いだったのが、今やケースにも入れずに古いフリースを自分で切って作った巾着袋に入れている。山では剥き身のままストラップをたすき掛けにしているので、岩やらにガンガンぶつけて傷だらけ。いつ壊れても不思議はないが、故障知らずなのはさすがジャパニーズブランドである。


今はカメラが売れなくなっているらしい。スマートフォンのカメラが進化し続けてもはやカメラ単品を使う必要はないのだ。iPhoneのカメラにはSONYのαシリーズと同じ部品が使われているらしく、確かに明るい中での写りに遜色はない。画像の編集機能はむしろカメラ単品より上なので、撮ってすぐにSNSに投稿したい人はスマホの方が便利だ。

コンデジからWiFiスマホに飛ばすくらいなら最初からスマホで撮れば良い。私も最近は沢に防水カメラ(OLYMPUS TOUGH )を持ち出す以外はコンデジを使わない。

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スマホ最大の欠点は壊れやすいことか。そのうちスカイツリーから落としても、象が踏んでも、深海に行っても大丈夫なモデルが出たらコンデジは不要になるに違いない。


しかしながら、気合いを入れて何かを撮りたくなることが時々ある。さほど力量があるわけではないので、こんなことを書くのも恥ずかしいが、その時は一眼レフを使うことにしている。

一眼レフとスマホの違いはファインダーを覗くことだ。スマホコンデジは画面を見ながら撮るので、ある意味で失敗も成功もすぐにわかる。常に画面の中に正解がある。

一方の一眼レフは撮る瞬間に内部のレンズが回転する構造になっている。レンズが回転するわずかな間は目に入る光が遮られるので、撮ったシーンを撮影者は厳密には見ていない。デジタル一眼はすぐに画面で画像を確認できるわけだが、それでも呼び出さないと成否はでないわけだ。

撮る時と撮れているかどうかのワクワクは一眼レフの方が勝るし、私はそちらの方が好きだ。


山で写真を撮るには朝と夕方が良い。光の溢れる街中を出ると世界の明暗がくっきりと浮かび上がる。

昼間になると、美しいことは美しいのだが、どうしても絵葉書のようになって、なんだかガッカリした写真しか撮れなくなる。朝夕はそれほど腕がなくとも行った者の特典としてそれなりに見せる写真になるような気がする。

しかし、朝夕の薄明かりだけで撮るにはどうしても失敗がつきまとう。肉眼ではいいなと思っても撮ってみるとボケボケにしか写らないのはザラだ。積雪期は撮った後に画像の確認するのも面倒になるので、とりあえず同じアングルで何枚か撮っておくものの、下山して確認すると何十枚もピンぼけを作っているばかりになる。

まあ撮れるかわからないのがまた面白いとも言えるのだが。


山で写真を撮るのは記録ということともに後から自慢するためでもある。いくら絶景を目にしても共有できないと何にもならない。いい写真を探して私は山を徘徊している。

その中で気づくのは山に入って初めて気づく影の世界である。光を撮ろうとすると影を探さないといけない。白黒写真の時代は余計にそうだろう。影のない写真は抑揚のない音声のように味気なく感じられる。

いい光の写真はいい影を気づかせてくれる。ただ、そのために私は盛大にピンぼけを毎度生み出しているのだ。

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パタゴニア・ナノエアの実力は?

 この冬はあまり寒くなっていないような気がする。ただ、寒くはなくともTシャツでは歩けないので、長そでシャツにフリースかなにかを羽織っている。「猫」のように洗濯の必要のない一張羅が羨ましいと思っていたら、最近は服を着た小型犬がずいぶん多いことに気が付いた。犬も服を着なければならないようだ。

さて、ダウンジャケットについて先日書いてみた。

yachanman.hatenablog.com

 ここ15年ほど500FPを超える高性能ダウンジャケットがかなりコストを落として販売される一方で、1000FPという驚異的な復元力を持つダウンまで登場。やはり天然素材という空気が流れている。

ところが最近また化学繊維が盛り返していて面白い。今年の冬に入って山に行けていない腹いせにまた山ウェアについて書きつけてみたい。

 

一昨年にPatagoniaのナノエアを買った。

化繊ダウンは少し中途半端な立ち位置だ。暖かさと軽さ、コンパクト性はダウンの方が上。対して化繊は汗などの湿気に強いのがウリと言われる。ただ、汗をかくくらいの行動量なら暑いので着る必要はない。何に使うのだ?

そんな文句を垂れていながら、アウトドア雑誌を眺めると「化繊ダウンもここまで進化」とかいう謳い文句が目に付くようになり、なんだか気になる。化繊ダウンの特集が組まれていて、使わないとソンみたいなことが書いてある。

気がついたらPatagoniaのサイトをポチっとやってしまった。アウトレットといはいえ25000円以上した。面白半分にしては高すぎる。

 

 ナノエアのは表面がダウンジャケットのようにテカテカしていない。通常の防寒着は風をシャットアウトするのも重要な役割で、撥水・防風の生地が多いのに対して、ナノエアはドテラかコタツの布団みたいだ。

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山に初投入したのは冬の丹沢・早川大滝。宮ヶ瀬湖から丹沢山北部に 位置する日本百名瀑の一つを見に行くというもので、かなりマニアックなところだ。冬はヒルもおらず、水量が少ないので渡渉も楽とはいえ、人はほとんどいない。

日中は谷間で風もないので、ベースウェアにフリースという格好で行動。滝に着き、そこから尾根に上がるルートを選んだ。

尾根に抜けるルートは大滝新道と呼ばれ、『山と高原地図』に載っていないものの、トラロープが張っていたりと迷うことはない。ただ、滝の上部で一緒に行った仲間が雪面をトラバースしている途中に落ちかけてかなり焦ることになった。

 

尾根に上がる雪道は膝下くらいのラッセルで、シャツ1枚という格好で移動。気温は0℃くらいだろう。

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写真はまだ日中なので暖かった。赤い服はパタゴニア・キャップスクリーンミッド。傾斜と深雪に足を取られ、汗までかいた。汗のしみたシャツに時折吹く風が冷たい。

ところが冬の日は短く、日が傾くと急激に寒くなる。尾根に出ると風も少し強まったので、ここで私は秘密兵器ナノエアに袖を通した。


残念ながら暗くなっていてナノエアを着た写真はない。

着てみるとフィット感はなかなかで、少し厚手のフリースを着るような感覚だ。フリースと違って風もシャットアウトしてくれる。

寒くなったとはいえ登りで使うには暑い。風を防ぐ分、熱や湿気がたまるのは避けられない。丹沢山の少し下から北側の三叉路までの下りで使ったが、早足になると暑く、ゆっくり歩くにはちょうど良いという感じ。完全に止まると寒い。

やはり万能とはいかないようだ。

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 良かったのは私の偏愛する胸ポケット。脇腹ポケットは入れたことをよく忘れるので、この位置がいい。2つ付いているが、個人的には1つでいいかな。


ここから余談(このブログそのものが余談みたいなもんだ)。

私にとって化学繊維のインサレーションはダクロンの寝袋が最初である。とは言ってもこれは私の父の所持品だった寝袋で、今から40年ほど前のものになる。当時、 アメリカ・デュポン社の中空繊維ダクロンを使った寝袋が発売され、私の父が飛びついたのだった。

今でもそうだが、ダウンは濡れるとどうしようもなくなるのに対して、濡れに強い繊維として一躍脚光を浴びていた。今私が使っているモンベルの厳冬期ダウンシュラフ#0とあまり変わらず10Lくらいの容量があるわりに、保温性はスリーシーズン用くらい。

とにかくダウンに比べてかなり嵩張るという印象だった。現行のナノエアも、モンベルの出すエクセロフトも大きな違いはなく、ダウンの2割か3割増しくらいというイメージで、ダウンを完全に上回ったとはまだまだ言えない。


総括すると、ナノエアは

・ゆっくり下山など運動量が少ない時はちょうど良い。

・冬に静止状態だと寒いが、春秋くらいの気温の時が最適(ダウンより心持ち寒いくらい)。

・収納はダウンよりやや大きい、軽量化には少し工夫が必要で、行動中に着ることが多いならその分収納にメリットとなる。

 

「猫のように一年中同じ物を着通せと云うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へせて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、かいこの御世話になったり、綿畠の御情おなさけさえ受けるに至っては贅沢ぜいたくは無能の結果だと断言しても好いくらいだ。」

夏目漱石吾輩は猫である

えらい肩書き

実家での会話。

私「〇〇さんって常務執行役員だってね」

母「常務執行役員って普通の常務とどっちがえらいの?」

私「別にえらいとかないんじゃない。会社にもよるし」

母「でも常務の方がえらいんでしょ?」

私「いや、執行役員っていうのは業務執行をやっているというだけで、それが付いているからえらいとかはないんだよ」

会社を含め、多種多様な肩書が溢れていて、長年肩書なしの主婦をやっていた母親からはよくわからないらしい。わからないものを理解しようとすると、どうしてもランキングを付けてみようとするのだが、組織によって序列が異なるので、こちらも簡単に説明はできない。

父も入って説明したものの、母は最期まで釈然としない様子だった。

 

幼いころの問いに「日本で一番えらい人は?」というものがある。答えは「総理大臣」で、アメリカの場合は「大統領」、フランスも「大統領」、イギリスは「首相」、タイは「首相」と「国王」がいるけどどっちだろうとなる。

大人になれば、「どっちがエラいなんて関係ないじゃないか。総理だろうが大統領だろうがソンケーできない奴はエラくない」と割り切っていく一方で、名刺交換の時には「へー!こう見えても人でも常務取締役なのねえ」と少し見る目を変えたりしてしまう。

中にはスゴい会社があって、「この主任やマネージャー、シニアディレクターっていう役職は何ですか?」と訊くと

「いやー、若手で名刺に肩書がないと話も聞いてくれない取引先があって、全員何か付いているんです」

と素直に答えてくれたセールスがいた。

田舎の会社になると、「ウチは支店長が担当している」という妙なプライドを持つ社長がいて、担当替えで平社員が担当すると怒り出すという話を聞いたことがある。その一方で担当していた平社員が支店長とか取締役とかになると、「ウチが出世させてあげた」と喜ぶ人もいて、肩書の持つ力もバカにならないものだと感じる。

 

田舎の営業所から本社に赴任すると、部長とか事業部長、常務、社長、会長といろいろいっぱい百花繚乱で、何がえらいのか見当がつかなかった。見上げれば上の立場の人がいっぱいいて、見上げすぎてのけぞりそうである。

こち亀』で「神」に楯突こうとする両津に天国警察の刑事がこう言う

「地球を滅ぼす力のある方だぞ!」

神ならそうなんだろう。ただ両津は「神だろうが仏だろうが許せん」と復讐を企てて話が進展する。

これは漫画の話としても、地球を滅ぼす力のある人と張り合うのは大変だ。しかし、そんな人間は現実にはおらず、日々社長・会長・役員に平身低頭している。いくらえらくても地球は滅ぼせないし、クビに、いや社長であっても今の労働法上では簡単に解雇もできない。

それなら恐るるに足らずと考えるのはやはり少数で、「常務にお叱りを受けた」とか「社長にお褒めにあずかった」と言ってサラリーマンは一喜一憂している。

アホらしいと言えばアホらしい。深刻と言えば深刻なのである。

 

野口健は幼少の頃、大使である父親から

「俺も今は大使とか言われているが、辞めたらただの人だ。お前は自分の名前が肩書きになるような生き方をしろ」

と言われたそうだ。

野口健は長じて「七大陸最高峰を最年少で登頂」を成し遂げ、アルピニストという肩書きで紹介されている。

本やメディアではどうしてもキャッチコピーが必要なので、そのような紹介をされるのだが、七大陸最高峰の登頂は現代の登山においてさほど難易度は高くないとされている。ただ、彼自身も著書やインタビュー記事を読むとそのことを認識していて、登山界の一部にはアルピニストを名乗ることに対する反発があることも理解している。

えらい人、肩書きのある人にならなければやりたいこと(エヴェレスト登頂など)もできないから名乗っているといったところなのだろう。肩書きの力は借りるけど、執着しない。そのあたりを隠さないところは私はわりと好きである。

 

登山に行くと「ここから落ちたら死ぬなぁ」と思うところが必ず出てくる。その瞬間は踏み外すかどうかが問題であって、どんなにえらくても関係ない。

怖さを感じる一方で究極の平等を感じる瞬間でもある。だから私は定期的に山へ行きたくなるのかもしれない。

ダウン・Down

日本にもいよいよ冬が来た。今年は10月にカナダのキャンモアで前日プラス10℃から翌日マイナス10℃を経験しているので変な感じがする。私は暑がりで寒がりというわがままな身体をいるので大変だ。冬山は特に大変で、登り始めは寒く、徐々に身体が温まり、ちょうどいい具合になったくらいにテント場に着き、テントを張りながらまた凍えるというようなことを繰り返している。

寒いときに重要な防寒着はアンダーシャツとダウンである。アンダーシャツはメリノウールと化繊の両方を使ったことがあるが、この違いについてはまた気が向いたら書いてみたい。今回は停滞時に重宝するダウンジャケットについて徒然なるままに綴ってみた。

  

1.mont-bell アルパインダウンパーカ800

最初に使った防寒ジャケットはモンベルのサーマラップジャケットだった。表面の生地は薄くて丈夫なバリスティックエアライト、中綿はエクセロフトという化繊綿で、ダウンほどではないけれど軽かった。サーマラップジャケットは袖や首回りが擦り切れ、ジッパーが噛んだ部分の生地が破れ、ジッパーの先の紐がちぎれるまで使った。矢尽き刀折れるまで戦ったというのはこのことだろう。

ただ、サーマラップにも不満があって、何より厳冬期にテント泊をするなんていうシチュエーションでは明らかに寒い。テントを立てるなり寝袋を出して潜り込むしかなく、寝袋に入るともう出たくない。せっかくの絶景も寒さには勝てず、これでは何をしに来たのかわからない状態となっていた。そんなこんなで次は暖かいものにしようと心に誓ったのだった。

 

コスパと暖かさを考えた結果、モンベルアルパインダウンパーカ800を選んだ。サイズは大きめのLサイズ。モコモコである。

使ってみて雪山では最強の暖かさだった。これより暖かいモデルは極地用や持ち運びを前提としない大重量の製品なので、軽くて暖かいという意味では最も良い。値段も1万円台の半ばで、800FPというスペックも申し分ない。

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ポケットは両脇腹に2ヵ所ととともに、ジャケット内部の脇腹付近には大型ポケットがあるのが特徴で、薄手の予備手袋などを中に入れておくのに重宝した。

たまに入れたことを忘れてワタワタ探し回ることはあったが。

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規格は全体的に大振りで、腹部はわりと大きい。私の場合はアウターの上から着ることが多い。格好は悪いが、アウターを脱ぎ着しないので寒くならない。テント場に着いたらすぐに着て、ピークハントの時は歩き始める直前に脱ぐ。これなら身体が冷えない。

ちょっとデザインには不満はあるもののなかなか活躍している。今はめちゃくちゃ寒い日の通勤、年に一度の大雪の時に街中で使うことが多い。

 

2.MAMMUT ダウンジャケット

 モンベルのもこもこダウンは気持ちよかったものの、大いなる欠点があった。

オジサンくさいのである。買ってすぐに意気揚々と着て新幹線に乗ると、50くらいのオジサンと完全にカブってしまった。色もサイズもまったく一緒。オジサンには申し訳ないのだが、ガッカリである。

この商品の名誉のために言うと、品質は素晴らしい。ダウンの質も生地の軽さと値段のバランスは最高だ。この価格でこのクオリティは他のメーカーにない。しかし、色とシルエットはなぜかオジサンなのだ。


そんな思いを抱いて思わずカモシカスポーツ横浜店で買ってしまったのがマムートのダウンジャケット。

アウトレットだったので値段はモンベルと変わらなかった。750FPダウンなのはモンベルに少し劣る。

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 このジャケットはシルエットが良い。この点がモンベルと大違いで、細身タイプで、フード周りもコンパクトにできている。

表面の生地は超薄手ではなく、わりと丈夫なのでガシガシ使えるのがいい。

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そして偏愛しているのが胸ポケット。両脇腹にもポケットはあるけど、胸の真ん中は私にとって使いやすく、iPhoneなんかをよく入れている。左右のポケットに入れると、どちらに入れたかよくわからなくなるのだ。

欠点をあえて言うなら収納サイズ。いつもフードに収めるような畳むが、やはり少し大きい。これはモンベルの薄手生地、高フィルパワーダウンとの比較になるのでやむを得ないところもある。

結果は一長一短というところだろう。


3.Patagonia ダウンセーター

 今更の定番モデルである。ただその定番を今年2019年に入って買ってみた。

感想としては、適度に丈夫な生地で、適度に軽い。800FPのダウンが適度に封入されている。暖かさはこれまた適度といった具合で、わりとトンがったところのない仕上がりである。

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これを買ったきっかけは、ちょっとフードなしにしてみようかと思ったからである。モンベル、マムートともにフードを付きにしたが、最近使うフリース、パタゴニア R1フーディニにフードがあり、さらにニット帽、ダウンジャケットのフードを被ると、耳が横に出ている私には痛い。フードは一つで良かろうと買ってみた。

今年のゴールデンウィーク蝶ヶ岳から燕岳に縦走した際に使ったが、良く言えば違和感なく、悪く言えば特徴なく使えた。風を受けるとフードがない分、ちょっと寒い。

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特徴は少ないものの、微妙な位置に内ポケットがある。

生地はスベスベしていて、着やすいのでわりと好き。こういう特徴の少ないハイスペックが一番使いやすいのかもしれない。


衣類は暖かい空気を纏うことであたを感じる。暖かさの原資は体温であり、摂氏36℃程度の体温で温めた空気を身につけることで人は氷点下でも生きてゆけるのである。暖かいダウンジャケットというのは要するに分厚い空気層を持つもので、単純にモコモコしている方が暖かいと考えればよい。理屈の上では風船を着ていればよいが、そうもいかないので中から膨らませるためにダウンが入っている。

ダウンは水鳥の胸毛で、タンポポの綿毛のようなものだ。ダウンジャケットや羽毛布団はこの綿毛を利用していて、山屋は鳥さんのお陰で生きて行けるのだ。

勲章

 会社でSDGsのバッジとやらが配られた。

17の色がドーナツ型に並ぶデザインで、17色は国連の持続可能目標をそれぞれ象徴していることになっている。ここではSDGsについて熱く語ろうなどという真似はしないけど、最近バッジをつけているサラリーマンを時々見ることがあり、「自分は付けたくないなぁ」などと考えていたら会社で配布されてしまった。

大変遺憾である。

不届きと言われるのを覚悟で書くと、バッジみたいなものは引っ掛けることがあるので嫌いだ。街中や事務所で藪漕ぎするわけではないけど、ああいう引っかかりのあるものは極力付けたくない。それになくす恐れがある。なくす恐れがあるくらいなら付けたくない。スーツに付けたままクリーニングに出す人がいること請け合いだ。「なくしました~」と言って叱られるくらいなら最初から付けたくない。

それに加えてバッジを付けてSDGsに貢献していますアピールという発想そのものが気に食わない。バッジ作る金があればそれで社会貢献せんかいという意地の悪いツッコミを入れたくなる。

そんなこんなの不満をブチまけてみたけど、とどのつまりはあんなバッジなんか付けたくないのだ。色とりどりのあのデザインが似合う人なんてそうはいない。どことなく軍服に勲章を下げた軍人を思わせる。

 

芥川龍之介侏儒の言葉

勲章も―私には実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

整体の効用

奈良マラソンに出た。2年前に3:19というタイムだったせいか、恐れ多くもAブロックに配置されてしまった。周りでは

「何?その格好(せんとくんの着ぐるみ)でサブ3?」

「会社の倉庫にあってん。やったらええもんくれる?」

スーパードライ買ったるわ」

「なんやそんなもん。もっとええもんにせえや」

「どひゃひゃ!」

というような和やかかつ危険な会話が交わされ、気が気でない。

気が気でないのは私が記録にナーバスになっているのではない。むしろ記録なんか期待していない状態だった。

私は3ヶ月近くも膝痛に悩まされていたのだ。

 

故障は過去いろいろしている。右足首は捻挫で靭帯が伸びたままだし、右手薬指の靭帯を痛めた時は完治に半年くらいかかった。

それでも今回の左膝痛は今までと少し違った。一つに、原因がわからないというのがある。9月のある日曜の朝にランニングをしたら突然痛み始め、翌日は歩くのも辛くなった。捻挫や打撲をしたわけでもなく、ダッシュで膝の靭帯を痛めたということもない。原因を分析して根治するのが西洋医学だから、なんだかわからないのに医者にはかかりにくい。

しかし、その後カナダでサイクリングをしたりトレッキングをするたびに膝の疼痛は増し、安静にすると収まるという一進一退を11月末まで繰り返した。12月8日のマラソン本番が目前に迫っていた。

 

困った私はついに診断を受けることにした。正攻法なら整形外科などに行くべきだろう。ただ、以前右膝の皿が痛くなり、医者にかかったら、レントゲンを撮り、私の足をこねくり回した結果、

「使い過ぎ」

とだけ言われた。どうやら整形外科の医師というのはレントゲンに写る骨の異常ならはっきりとした診断を出せるが、自己申告の痛みには慎重な姿勢を示すらしい。

今回は時間もないので、夜でも行ける整体に初挑戦してみた。

 

駅の周りを改めて眺めてみると「整体」や「整骨」、「接骨」、「鍼灸」といった看板がたくさんあることに気づく。高野秀行さんの『腰痛探検家』を読んでケタケタ笑っていたが、これだけあれば迷うはずである。どこが名医なのか見当もつかない。

本当は相方オススメの整体師が八王子にいるらしいけど、今回は遠過ぎるし時間もないのでパスとする。戦闘機マニアらしいのでその辺も時間があれば伺うこととしよう。

行ったのは最寄り駅の近くにあるクリニック。ビルの1階にあり、女性でも安心な雰囲気の小綺麗なところだ。

入るとまだ若い女性がいて、施術中だった。

「左右のバランスが少し改善されましたね」

カーテンで遮られているので見えないが、マッサージのようなことをしているのだろう。会話から察するに、女性は事務職で肩こりがひどいらしい。私は肩こりを感じないたちなので、肩こりから整体に行くもんなのかと感心した。

 

私の番になり、簡単な問診を受ける。

「3ヶ月前に突然左膝が痛くなり、以来治らないです。今はランニングで10kmを超えると痛みが出ます」

正直に言った。先生はまだ30くらいだろうか。真面目な役をしている堺雅人風の華奢なお兄さんだ。

「足を組む習慣は?」

「あまりありません」

「立つ時に体重を乗せるのは?」

「左ですかねぇ」

「足の大きさも違うでしょう?どちらが大きいですか?」

「右です」

一通り聞くと、今度は歩き方チェックや片足スクワットなんかをさせ、寝転んで私の足をタブレットで撮影した。

「ほら、左足が右より少し長くなってますね。歩く時も少し肩が落ちてるし、左足に負担がかかりやすくなってます」

「うーむ」と私は腹の中で唸った。そうするとさっきいた事務職の女性と同じということになる。

しかし、ここで疑っても仕方ない。この手の民間療法と西洋医学との違いは診断に客観性を要しないことである。ある程度の説得力さえあれば、客(病院ではないので)は信じるしかないし、「信じない」としても現実を打開することはできない。

「はあ。それではどのようにすれば治りますか?」

「まずは身体の歪みを取ることです。左右が均等になれば左足の負担が減ります。動かさないでいれば早く治る可能性は高いです。それで治るかどうかはわかりませんが」

先生は最後、妙に言葉を濁した。

 

その後、先生は身体の歪みを取る施術とやらを施し、再びタブレットで写真で足を撮ると

「左右が逆転した」と言い、「これは一時的なものですから、また元に戻ることがあります。続ければ治るでしょう」と言ったわりに、次回の予約を取ることは勧めなかった。

「スポーツ障害ですから今日の施術で劇的に治るということはないでしょう。しかし歪みを矯正すれば少しずつよくなるかもしれません」

すぐに治らないことだけは強調して本日の営業は終了となった。

 

最終的にそのわずか5日後、私はマラソンのスタートラインについた。開始1㎞で左膝に違和感があり、リタイアかと思ったが、3㎞くらいから感じなくなった。

そのかわり練習不足の代償が後半にのしかかり、35㎞からは走ることができなくなり、トロトロ歩いて、最後は件の「せんとくんおじさん」にも抜かれ、それでも4時間以内にゴールできた。足に激痛が走った場合に備えてロキソニンまで用意したのに、全く使わなかった。

膝痛の原因はおそらく腸脛靭帯炎。足の外側に伸びる靭帯が硬くなり、膝の骨と擦れて炎症を起こしたと見られる。私は整体で効果がないとみるや、ネットで調べてストレッチを大会直前までやっていた。足の外側の付け根、ポケットのあるあたりをクニクニ押すと、最初は痛かったが、2日くらいすると筋がほぐれたのか感じなくなった。大会の最中も少しは痛かったものの、足が上がらないほどにならなかったのはこのストレッチの効果だと思われる。

では整体に効果はないのだろうか。そうは言わない。信じるか信じないかは本人次第。私は単に信じなかったので効かなかっただけなのだ。

情報難民と読書

来年の手帳をめくっていたら「体育の日」がなくなっていることに気づいた。

今更のように思われるかもしれないが、ここのところテレビが家にないのは相変わらずのことながら、ラジオも聞かないので、世間というものからずいぶん遠ざかっている。新聞も読まず、まさに都内の仙人だ。

 

かつては新聞をうるさく読めと言われた。就活の時は日経が社会人の必須要件のように言われ、面白くもないのに、大学の図書館で全ページをめくりもしたのに、本当の社会人になるとより読まないのだ。まさに社会人失格である。

それでは実生活で何か不便があるかといえば、あまりない。そもそも年を経るごとに他人との共通の話題が減るように思える。せいぜい災害や何かの凶悪事件などのネガティブな情報。または有名人のゴシップくらいで、国民的熱狂を生むイベントもあまりない。

先日会社に来た某銀行のセールスにこちらの上司が少し遅れる旨を伝えるや、「それでは雑談でもしていましょうか」と前置きをした上で、「最近めっきり寒くなりましたねぇ」と話し始めて驚いた。何に驚くといって、こんなにもわかりやすい雑談はないもんだ。雑談にしても雑過ぎりゃせんか、と腹の中で考えたものの、相手の興味もわからない中での他人同士の会話なんかそんなものかもしれない。

 

十数年前に盛んに言われた言葉はITつまりinformation technology、情報技術だ。今このブログを打っているiPhoneもその賜物であり、「賜物」という言葉を辞書なしで入力できるのもその恩恵である。

情報がいくらでも手に入るようになったから情報を頭にストックしなくても良くなった。否定的に考える人もいるが、私は肯定派だ。「憂鬱」という言葉を書くたびに辞書を引きたくない。英語の綴りなんてtechnology のhは確実に抜けるだろう。

十数年前、自動車教習所の二十代後半くらいの講師が

「人間、便利になると衰えていくところがあると思うのです。最近は携帯電話が出てきて電話番号を覚えることもなくなりました」

などと年に似合わないことをのたもうていた。講師よりさらに若かった私は「電話番号なんて覚える意味があるのか!?」と可愛げもなく思っていたわけで、今も自分の携帯電話と実家の番号、会社の代表番号くらいしか諳んじることができない。私の少ない頭脳容量では電話番号なんて入る余地はない。

 

スマートフォンの普及とともに新聞を読む人が減り、テレビも見ない人が増えた。つまり地デジ化前からテレビも見ていない私などはバカにされつつも最先端だったのだ。

テレビを見なくなった理由の一つに時間がないというのがある。仕事が忙しくなり、帰宅してもどうせ寝るだけならテレビは睡眠不足の温床になるだけだ。

ただ、それだけではない。いつしかむやみに情報を入れすぎると、消化不良になって気持ち悪くなるようになり、情報そのものを遠ざけるようになっていた。私には情報に対して「消化」という行為が必要だ。情報化社会で、情報をいつでも受けられる分、選別しないで情報を浴びていると、不感症になってしまい、考えることを放棄してしまう。「考える」ことがわりと好きな私に多すぎる情報は思考停止の元凶になりかねず、無意識に避けるようになっている。

最近は興味のある本ばかり読んでいる。本の良いところは情報過多にならないこと。自分でお腹いっぱいのところでやめることができることだ。それと、途中で考えたいときに考えられる。テレビのようにぼーっとしていると見逃すということがない。

新聞はどうかと言えば、紙面を情報で埋め尽くすためにやはり情報過多なのと、いかにも真実っぽくて考える余地が少ないように思える。なにより社名が先に出ていて書き手が見えづらいので、記者の顔を思い浮かべることがないのが嫌だ。

 

とにかく常にぼーっとしている私はぼーっと何かに思いを巡らせている。自分の頭で考えることが好きなのだ。

それでは、外に出て紅葉が赤くなるワケでも自分の頭で考えてみようか。

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