クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

ワークマンのウェアはどのくらいの耐久性か?

週末はとんでもなく暑かった。蒸し暑くて走ることもできない。図書館へ行くのが精一杯。相方と2人して色白の足を曝しながら歩いた。

図書館の近くにワークマンがあるので帰りに寄ってみる。防水手袋があったら見てみようという魂胆である。

最近、アウトドア界でワークマンのシェアが広がっている。

知り合いの登山者は、沢登りにアウトドアメーカーのレインウェアを持って行ったら「もったいない。ワークマンにしろ。ワークマンに」と言われてわざわざワークマンでレインウェアを買ったらしい。

どっちがもったいないかわからない。

店内を見渡すと「ワークマン女子」というポスターが貼ってあった。山ガールにカープ女子。女の子がやるとなんでも流行るのだ。ただ、本当にアウトドアでワークマンを着た女子を見たことはない。本当に女子に流行っているのだろうか。

 

目的の防水手袋はなく、結局Tシャツを1枚買った。なんと580円。

Find Outというワンポイントが付いている。これがどのくらい持つだろうか。

これが良ければ私も「ワークマンおやじ」になるかもしれない。

河野啓『デス・ゾーン』

河野啓『デス・ゾーン』を読んだ。

栗城史多のエベレスト劇場」というサブタイトルのあるとおり、2018年にエベレストで滑落死した栗城史多がテーマとなっている。

読後感はなんともザラりとしている。

栗城史多についても、本書についても至る所で評論されているので、ここでは私の素朴な感想を書きたい。

私が栗城史多という人物を知ったのは14年ほど前だろうか。NHKの番組でエベレスト登山をオンラインで生配信する登山者として取り上げられていた。番組内では「何度この動画を見たかわからない。引きこもっていたけど、勇気をもらった」と話す人もいて、比較的好意的な印象だった記憶がある。

しかし、その後に読んだ彼の著書『一歩を越える勇気』を読んで何とも言えない違和感を持った。前半は登山を始めるまでと六大陸最高峰までが描かれていたのが、後半は自己啓発本のような内容になっていたのだ。

『デス・ゾーン』ではディレクターであるの筆者と栗城史多の周囲、ネット上の意見などを交えて、栗城史多の「エベレスト劇場」を描いている。

正直、ネット上の書き込みまで入り混じると実像がかえってわからなくなる。読んでいて途中で投げ出したくなった。

ただ、最終盤、栗城史多が信頼したという占い師の話などは読みごたえがある。

 

私自身の所見を少し書きたい。

栗城史多は自分の弱み曝しだすことで、多くの人の共感を受けた。彼の欠点があたかも自分の欠点を埋め合わせてくれるように思えたはずだ。

しかし、彼はエベレストを使って観客を楽しませる演技を始めてしまう。そして、演技がエスカレートするにつれて、「ひ弱なニート登山家」というホームポジションにも戻れなくなったのではないだろうか。

動画内で「こわいよ~」と言っている程度の演技ならばよかったのが、いつの間にかエベレストの未踏ルートに挑むアルピニストになってしまった。

本書のザラりとしたと書いた読後感は、「死」という結末だけでなく、誰しもにある危うさが随所に滲み出ているからかもしれない。

文系人間の理系コンプレックス

ここのところ本は図書館で借りることが多い。

買うとなると失敗したくないので、無難に知っている作家や確実なジャンルを選んでしまう。それが図書館では意外な本でも手が伸びる。単にタダだと思うからなのだが。

そんなわけで梅雨時は読書である。

ハイエクの経済論を知ろうなどと大それたことを考え、4週間の間に読み切れないなどということを繰り返している。

私の場合、翻訳本は時間がかかる。一方で日本人の日本語ならそこそこ読める。先日、ROE経営の云々という本を借りたが、完全ではないけど読むことは読めた(理解できているかは別として)。

読んでみるとなんとかなるものだ。

 

先日、会社の人事でこんな話が挙がったらしい。

「部署によってはやたらと理系を配置しろと要求するが、大学で理系だったからといって仕事で活かせるかなんてわからないではないか。〇〇なんて文学部で電気の資格を持っている」

この〇〇というのが私である。電気の資格は会社で必要に迫られて取っただけだし、簡単なものなので威張れたものではない。

妙なところで引合い出されて光栄なのか不名誉なのだかわからないが、この話は日本の「鉄は熱いうちに打て」と「手に職」信仰を物語っている。文学部なんていうクソの役にも立たない学問をやっていた人間より早くから理系を選択し、技術を身につけた人間の方を現場は欲しがるのだ。

その反例として「なんでも屋」の私が挙げられたようである。

 

その「なんでも屋」から言わせると、多くの知識は文字から得られる。この時代、YouTubeでもいいのだが、動画は内容のわりに時間がかかる。文字の方が効率がいい。

媒体は紙でも電子でもどちらでも構わないが、とにかく文系だろうと理系の本を読めばそれなりの「理系」になれる(ような気がする)。高校の時に「数学嫌いだし」と文系を選択したがために、一生理系コンプレックスを背負う人があまりに多いように思えるのだ。

一生背負う看板を「文系」と「理系」のたった2つに色分けするのはもったいない。自分の看板は自分で架け替えられるように今日も本を読んでおくことにしよう。

SEA TO SUMMIT ウルトラライト インサレーティッドマット

梅雨入り。日本列島には見事に停滞前線がかかっている。

気晴らしに行く当てもないけど、夏山登山用のパッキングをしてみた。

その時、先日買ったウルトラライト インサレーティッドマットに空気を入れて試してみたのでちょっと感想を書いておきたい。

仕舞寸法は500mlペットボトルくらい。

カタログ数値によると、XSサイズで128cm、厚さ5cm、R値3.3となっている。ちなみにネットで見るより色が穏やかなオレンジでよかった。

さて、買って1ヶ月以上経過しているけど、ようやく膨らましてみよう。

 

最近のエアマットの流行りはポンプ付き。

かつてのマットはとにかく気合と根性。呼気で膨らませる方式だった。その元祖とも言えるサーマレスト。私はサーマレストによく似たモンベルアルパインマットという製品を使っていた。いずれも半自立膨張というのが売りではあったが、結局最後にフウフウ吹くのが疲れた。

その後、サーマレストからネオエアというとてつもない寝心地の製品が出て、友人が意気揚々と手に入れていたものの、入れる空気の量が尋常ではなくなり、これまたフウフウするのが大変になった。

さて、流行りと書いたエアポンプがこの度のマットには付属している。

付属と言ってもスタッフバッグがそのままポンプになるというもの。説明が難しいのだが、スタッフバッグ二重の筒状になっていて、筒を伸ばして空気を入れ、先っちょのアダプターをマットのアダプターと接続して空気を押し入れる。

問題は筒状に伸ばしたスタッフバッグへの空気の入れ方で、呼気を入れて広げたりする。それでは結局フウフウは同じ気もするのだが、最初からマットに入れるよりは遥かに楽だ。

膨らませるとこんな感じ。

寝てみたけど、軽量化のためにポコポコと凹みがあるけど上々の寝心地。中にウレタンなど一切入っていないので、パンクが怖いけど、どれくらい持つだろうか。

とにかく軽くて寝心地が良さそうなので今から使うのが楽しみだ。

マスク、いつ外す?

先日、職場でよくわからないお達しが出た。

「会話をしない時のマスク着用は自己判断で」ということなのだが、何を言いたいのかわからない。マスクを外す、外さないは自己判断としても、それを是とするか非とするかは周囲である。

なぜそんなお触れが出たかと言えば、上からの指示らしいのでこれ以上書くのは止すが、いちいちお触れを出す日本の特徴といえるかもしれない。

しかし、マスクを着ける習慣がこの2年でどっぷりと定着した。

2年前、コロナの流行り始めのころ、それほど意識の高くないわれわれは人混み除いてはマスクを外して歩いていた。すれ違う老婦人から「なぜマスクをしないのですか?」などとやんわり注意されたりしたこともある。

マスクに防毒性能があるわけでもないのに、一度着け続けるとなかなか止めにくい。この2年くらい、風邪を引くことも、花粉症がひどくなることもなかったのはおそらくマスクのおかげだと思う。

こうなると本当に外しにくい。

この間、奥多摩の川苔山などに行ったら、マスクをする人としない人で二分されていた。

暑いし、スポーツをしているわけだから、外してもよさそうなものだが、律儀にスポーツ用マスクかスカーフをしている人も多い。すれ違いも以前より距離を取る。

しかし、マスクをしろという貼り紙も少なくなったし、会話する人も増えた。ちょうど1年前の方がはるかに感染者数が少なかったのに、警戒感が強かったのだからわけがわからない。

そんな現状を見ていると、コロナも一種のインフルエンザ化していると言える。謎のウイルスから、ある程度実体のある感染症に2年を経て変わった。

しかし、最も変わりやすいのは報道や政府のお触れによってコロコロ変わる人の意識なのかもしれない。

一生のうちに富士山、何度登る?

梅雨入りしてしまった。

紫陽花を見るのは好きなのだけど、出かけにくくて困る。こういう季節になると余計に山登りに行きたくなるから不思議だ。

 

東京近辺で登山を始める人はまず高尾山か金時山、大山あたりに行く。そして、そこから遠くを眺めて富士山に登ろうと思う(らしい)。

「一生に一度登るバカ、登らぬバカ」とも言われる富士山だが、私は5回登っている。

初めて登ったのは10年以上前になるが、人の多さに嫌気が差した。自分もその一員なので文句を言うのも筋違いながら、高山病より先に人酔いしそう。隊列を組んでノロノロと歩くさまは小学校の遠足か、亡者の群れのようだった。

一方で、登山用品店でバイトもしていた相方は一度も登っていない。

理由は「楽しくなさそうだから」とのこと。確かに富士山という山は延々登りで、景色も変わらないし、植生にも乏しいしで、楽しくない。

それを多くの人は夜間に登る。夜間はさらに展望もない。もはや苦行である。

多くの人は富士山の後もしょっちゅう登山をするわけではないのだから、この苦行もスパイスとしていいのかもしれない。

ただ、毎回の登山がこれだと私には耐えきれない。相方は一度でもこの苦行は嫌らしい。

では、なぜ私が5回も登ったかというと謎である。

ただし、少なくとも1人で行ったのは最初の1回だけで、あとは複数人で行っている。1人登ると苦痛は倍だが、2人だと半分、3人だと3分の1になるのが富士山マジック。

結局、周囲に富士山へ登りたい誰かがいる限り登ってしまうのかもしれない。

魂の震える登山名文集④~角幡唯介

今から5、6年くらい前、年間24回登山に行っていた。つまり月2回ということになるのだが、週末登山者としては行ける時を全て費やしたことになる。

登山は天気が悪ければ行けないし、休日出勤もある。山に行かない日はボルダリングジムへ行っていた。

当然頭の中の半分くらいは次どこに行こうかということばかり。人生これでいいのかと思わなくもなかったが、いい職に就き、いい収入を得て豊かに暮らすというような目標はどうでもよくなり、今登りたい山に登るということに情熱を燃やしていた。

徐々に価値観が壊れていき、自分の考えが一般的でないことに快感すら覚えるようになっていく。実際には山登りをしているだけなのに、「精神的なアウトロー」を気取るようになる。

そんな壊れた価値観について角幡唯介さんが書いている。

 

クライマー ならクライミングより価値がある世界を認めないだろう。クライマーにとっては村上春樹宇多田ヒカルでさえ、さほどの人物とは思われない。なぜなら彼らは壁を登れないからだ。

角幡唯介『探検家の日々本本』

 

角幡さんと言えば、今や数々の賞を受賞し、本を何冊も出す売れっ子。その抜粋がちょっとしたところで申し訳ないところなのだが、私は軽いタッチで書いているエッセイなどが好きだ。

 

さて、近代の教育とは何かと言えば、価値観の固定化だと言える。一箇所に集め、同じ価値観を共有する。日本人として、家族として、人として何をすべきか、どう生きるべきか。

しかし、単一の価値観は同時に重荷になる。

その理想像から遠ざかる人間が必ず存在する。そしてその価値観からズレることに快感を覚えるようになるのが登山者なのだろう。危ないこと、やってはいけないということをあえてする。一般的な価値観からあえて逸れる。

ただ、現代に暮らすわれわれには時としてそれが必要なのだろう。仕事、家庭、学校の「あるべき姿」に押しつぶされそうになった時、登山は新しい価値観を与え、登山者を救ってくれるのだ。