クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

装備間違い

凍傷になったので新しい冬用の手袋を新宿で見てきた。

新宿にはMt.石井スポーツが西口と東側のビックロの中にあるし、L-BREATHとモンベルの直営店が南口にあるので、ファミリーキャンプからアルパインライミングまで網羅できる。東京都はオソロシイところだ。

しかしながら、時折ディスプレイされているマネキン君に間違いがあったりして、「おいおい大丈夫かい?」ということがある。よくあるのは冬だからということでやたらに分厚いフリースを着ているケース。パタゴニアで言えばR2、モンベルで言えばクリマエアくらいの毛足の長いフリースで、ムックかモンスターズインクみたいにモコモコした手触りだ。「それ着て登ると暑いよー」と言いたくなる。暑いだけならいいのだけど、汗をかいて冷えると猛烈に寒い。というか危ない。

物言わぬマネキン君は知らぬ間に危機的状況になっているのだ。

 

登山用品店が他のアパレルショップと違うのは、ディスプレイするものが決して売りたいもの、売れるものではないケースがあることだ。例えば8000m峰や極地探検スタイルのダウンスーツを着たマネキンがいても、別にそれがジャカジャカ売れることなど期待はされていない。単にその店が登山に詳しいとか、ハイキングからエクストリームなアクティビティ用のウェアまでいろいろ扱っていることがわかればいいのである。ただ、取扱商品の限界からか、時折、肝心な部分が抜けているケースも見受けられる。

十数年前、大阪のショッピングモールに行き、いくつかのアウトドアショップをはしごした。当時できたばかりのモールで、THE NORTH FACEモンベル、Colombiaなどいろいろあって楽しい。目的は冬用手袋を買うことだったが(この時も冬用手袋をさがしていたのだ)、関係のないところも一通り巡った。

その中のモンベルを覗きに行くと、表に雄々しくダウンスーツを着たマネキン君がいる。極地用ダウンスーツを販売しているメーカーは少ない。ヒマラヤではThe NORTH FACEのシェアが高いそうで、あとはミレーやヴァランドレなどのヨーロッパメーカーで、日本ブランドではモンベルが唯一ではないだろうか。その唯一のメーカーがヒマラヤか南極かわからないが、世界の極地に挑んでいるわけである。

しかし、足元をよく見る少し私は冷めてしまった。そのマネキン君が履いていたのは厳冬期用の登山靴ではあった。しかし、それは国内の3000m峰に対応するようなモデルで、8000m峰に挑むようなダウンスーツとはかなりアンバランスな姿だ。当時、モンベルでは、厳冬期用登山靴は自社製品しか置いてなかった。今ならASOLOがあるが、当時は輸入代理店になる前だ。まあ50年前はそれより粗末な装備だったから登れる人は登れるだろうけど、他に8000m用の専用ブーツがあるのだから現実には使わないだろうな。

それにしてもちょっと臨場感のないディスプレイは残念だった。

 

今回、某店のディスプレイでアイスクライミングの装備を身につけているものがあった。カリマーのウェアに身を包み、アイス専用のアックスを両手に掲げている。上から下へと視線を移すと足元に目が行った。冬季用ブーツはLA SPORTIVAのネパール EVOという定番モデル。アイスをやるのに何の問題もない。

しかし、そのブーツの下に装着しているクランポンはどうだ。グリベルのニューマチック。私が使用しているのと同じだ。

「ん?同じ?」

私はアイスクライミングをしないため、使っているクランポンは縦走用であって、氷壁を登るためのものを選んでいない。それはいわゆるセミワンタッチという形で、ビンディングが踵にのみ付いていて、つま先はプラスチックで押さえるだけになっている。ブーツに固定する役割はナイロン製の紐が担っている。

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わりと定番の商品ではあるのだが、アイスクライミングには向かない。つま先の爪は氷壁を登るより、岩に乗るのに向くように、横向き付いているし、このセミワンタッチは結構外れる。冗談抜きに、私はこれを使って歩いていて、時たま緩んだり外れたりした。怖い怖い。そのためしょっちゅう紐が緩んでいないか気にするのが習慣となっている。

さて、これでアイスクライミングをしたらどうなるか。氷壁に蹴りこんでいるうちに落とすだろう。私がちょっと傾斜の急な稜線で蹴りこむだけで緩むのだ。ダブルアックスで両手のふさがった壁の中では紐を締め直すなどできず、どこかでポロリ。下でビレイしている人に当たらなければいいが。まあその前にそのクライマーが落ちるかもしれない。

そんな意地の悪いことを考えながらディスプレイを見るのも山に行けない憂さ晴らしとしている今日である。

指輪ころんころん

 以前、指輪について茶化したというか、適当な雑感を書いた。

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自分は生涯指輪なんぞせんと誓ったわけではないが、縁遠いものと見ていたら年明け早々に買うことになってしまった。「なってしまった」などと書くと罰が当たるな。買うことになりました。

 

訳あって指輪を買わなきゃいけなくなった。訳といってめでたい訳だから「いけなく」なんて言ってはならない。まあお察しください。

昨年、後輩が計100万円(婚約指輪と結婚指輪)を使ったと聞いて、恐怖におののいていたら、相方が手作り工房というのを提案してきた。聞けば蝋を削って形を作り、その通りの指輪を制作してくれるらしい。基本料金として若干の金額があるもものの、デザイン料はないし、あとは金属の値段だけ。なにより唯一無二のものというのが面白くて作りに出かけた。

 

工房は都内某所、神宮球場の近く。雑居ビルの1階にあって、去年行った整体をちょっと狭くしたようなところだった。例えがわかりにくい。要は狭い喫茶店くらいのサイズで、工房と言っても作業机が2つ置いてるくらいで、奥は倉庫やらがあるようなところだった。

私たちが入ると奥ではすでにカップルが作業に入っていて、トンカントンカンやっている。途中で何組か問い合わせや見積もりに来るカップルもいて、結構流行っているようだ。

最初に簡単な説明を受け、指のサイズの内寸にした蝋を受け取ると、あとはヤスリやサンドペーパーで削るだけというものだった。簡単に書いたが、やってみると蝋というのは木と違って簡単に削れる。ただ慎重になると進まないので、遠慮なくガリガリやること3時間。店長という茶髪、ピアスのちょっとヤンチャな印象のおねえさんの手伝いもあって完成した。

 

指輪のテーマはズバリ「山」。

最初はどうなるかわからず、大丈夫かいなと感じていたが、おねえさんの力もあってしっかりと山になった。聞けば当のおねえさんもイメージができずに困惑していたらしい。

モデルとなった山はこちら。

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そしてできた指輪はこちらである。

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まあ、出来栄えは制作者の力量に限りがあるので、こんなものだろう。ただ、実際にこの指輪、手に着けてみると少しばかし問題が発生していた。

問題とは、大きいのだ。

そんなこと作る時に気づきそうなもんだが、私の指に問題があった。私の指はどれも第二関節が太くなっていて、指輪を通そうとすると関節に引っかかってしまう。手全体は小さい方なので、指は普通の太さなのに関節が膨れているので、どうしても大きめのサイズを選ばざるを得ない。試しに工房で1つ下のサイズを付けたら、関節に引っかかって外れなくなり、一瞬焦ってしまった。外れなくて指輪を切断したという話も聞いたことがある。高い買い物だけに恐ろしい。

 関節が太い原因はボルダリングだ。登山の助けになればとジムに十年ほど前から行き始めた。最近はまるで上達せず、握力は強くならずなのだが、月日の効果、雨だれ石を穿つか指の関節だけ太くなった。

山友達によればクライミングを続けると関節が太くなるだけでなく、指の方向も曲がってくるようだ。私の指もわずかに外を向いている。さらにやりすぎると次の段階では指が伸びなくなるらしい。そこまで来るとスポーツ障害、一般的には普通の障害に見える。

いやはや自己責任とはいえ大変だ。

フルマラソンを走れば爪がベロりと剥がれ、冬山に行けば指先やら鼻先が凍傷になったりと始終怪我をする私もいろいろと大変だが、指輪を嵌めるだけでこんな目に遭うとは思わなかった。

犬も歩けば棒に当たる。ボルダリングも続ければ指輪も通らず。

 

結局太めの指輪にして届いてみたら、関節は通るもののその下でころんころん回る。指輪本体が肉で止まっていないので、グラグラしている。シャドーピッチングをしたら飛んでいきそうで不安だ(指輪をしてそんなことをするのはどうかと思うけど)。

かと言って縮める(サイズを加工してくれるらしい)と関節を通らなくなるというのも怖い。さらに通っても外せないというのは余計に怖い。

今日も指輪をころんころんいわせて悩んでいる。

山屋の魂 ピッケル

実家に古ぼけたピッケルが置いてある。木製シャフトのシャルレ。父のもので、今から40年ほど前の代物だ。木には細かい傷がびっしりとつき、鉄製のピックには錆が浮かんでいる。長さは60cm超で手の長い私が持つと地面を引きずるくらい。登攀用というより杖と言った方がよさそうだ。

昔のピッケルは、それはそれは高級品だったと聞く。なんでも3万円以上はしたという。当時の3万円だから今なら10万円以上に匹敵するだろう。それを得意になって持ち歩いていた。今でも夏山にピッケルを持ってくるオジサマを稀に見かけるが、雪面滑落など絶対にないルートで持っているのだから、あれは実用よりピッケルを持っているという自慢だろう。おそらく昔から山には得意然とピッケルを持ち込んでいたに違いない。

 

父は昔、会社の山岳会に属していて、雪山から岩登り、沢登りまで一通りやっている。当時の雪山訓練は滑落停止と耐風姿勢で、これにはピッケルが必須だ。滑落停止は背中から雪の斜面に落ちたところから俯せになり、ピックを斜面に突き立てて止めるとされる。

まあ難しい。というか無理である。傾斜が緩やかであれば止まるが、緩やかなら止まるまで滑ってもいいようなもんだ。しかし、現実に止めたいのは急斜面での滑落であり、その際に身体を滑りながらゴロリんと反転する余裕なんてない。もう仰向けだろうが俯せだろうが構わずに雪面にピッケルを突き刺すしかない。何もピッケルにかかわらないので、アイゼンで踏ん張ってもよい。とにかく初動段階で止めることなのだ。

えらそうに書いてみたけど、私が滑落したのはただの1回。西穂高の頂上近くで、その時は俯せになるよりアイゼンを雪面に突き刺して止めた。しかし、もう少し勢いが付いたらアイゼンなんかでは止まらないだろうし、そうなったらピッケルで停止できるかは甚だ心もとない。

しかしながら、わが父は5月の残雪期に朝日連峰へ行った際にメンバーの1人がピッケルを忘れたと知るや、全員で町中(確か仙台だっただろうか)の登山用品店を探索し、1本だけ残っていたピッケルを買ったそうだ。この話を聞いた時は、雪山にピッケルは必須なんだなあくらいにしか思わなかったが、今にしてみれば緩斜面ならストックだけで十分な気がする。むしろ残雪期の柔らかすぎる雪面にピッケルは刺さらないので、手に提げているだけで使わないことすらある。

それでもなおピッケルを必死に探すのには、実利的より精神的な理由があるだろう。山屋が雪山でピッケルを持たないのは、武士が刀を忘れるように。

 

 私が初めてピッケルを手にしたのは雪山を始めた8年ほど前。登山用品店で見ると1万円から3万円台までいろいろある。ペツルのサミットとかサミテックなんかはカッコよいものの、お値段2万円也となっている。

私は結局、直前に買ったアイゼンのメーカーと同じグリベルにした。モンテローサというモデルでお値段1万円弱。全体が黒い武骨なもので、シンプルと言えばシンプル。ペツルやブラックダイヤモンドのようなシャープさはない。カッコいいかは最初は微妙だったが、雪面に突き立てて写真にするとよく見えたりする。

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元来、ピッケルは滑落停止とともに足場を切るという役割を担っていた。シュタイク・アイゼン、通称アイゼンという鉄製のスパイクが登場する前の登山家は靴底に鋲を打っただけの靴を履いていたため、足場を平らにしないと滑落する恐れがあった。そのため、ピッケルには先の尖ったピックの反対に雪面を削るショベルが付いていた。昔のピッケルが今より長いのは足元までこのショベルが届かないと削るのに不便ということがある。したがって、父のシャルレも真っすぐで長い木製シャフトで、今の子どもが見れば工事用ツルハシと変わらない印象となっている。

今の流行りはベントシャフト、シャフトがピックの先の方向に曲がっている。これは雪壁を登るアイスクライミングの影響で、ピッケルを杖ではなく斜面に引っ掛けて登る志向が強くなった現れである。本当にそんな登り方をするかはともかく、緩斜面ではストックの方が便利なので、ピッケルは急斜面に特化した形になっていったと言えるかもしれない。

常に流行には背を向けて生きている私ではあるが、そのうちこのベントシャフトに浮気心が出てしまった。ピッケルは武士の魂たるものなので、昔なら1本と決まっている。なにより輸入品で新卒給与並みの金額が付いていたのならなおさらである。しかし、今は安ければ1万円で、縦走・バリエーション・アイスクライミングで使い分ける人も多いと聞く。先のグリベル・モンテローサで5月の奥穂高岳に行ったときは、シャフトが長くてピックを刺しにくかった。西穂高岳に行った時もベントシャフトを持つ友人たち

うだうだと考えていたらカモシカスポーツ横浜店のアウトレットコーナーで半額になっているピッケルを見つけてしまった。クライミングテクノロジー・ハウンドG。

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 やや前傾しており、オプションのハンドレストを付ければアイスクライミングも可。そんな使い方はしないけど、そんな情報だけで心躍るのが男の単純なところだ。甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の上部の雪面なんかはピックを刺すことが多いのでストレートシャフトのモンテローサより楽。シャフトが短いので、バックパックにも付けやすい。歩き中心の登山ならストック1本とハウンドというところに落ち着いた。

 

これで大したこともしていないのにピッケル2本持ちになってしまった。武士も大刀を2本持ったりはしないので、少々複雑だ。ピッケルが山屋の魂なら魂は2つあってはならない。今はピッケルが廉価になった分、ただの道具になったしまった感がある。

十数年前にクライマー・山野井泰史さんは雑誌のインタビュー記事で「道具に愛着はない。山で使って、畑で使って捨てる」と語っていた。実際、登山ウェアや道具は最後に畑を守る案山子になり、どうしようもなくボロボロになれば捨てているようだ。道具の本分は使われることだから、使わずに添い遂げるより壊れるまで使いつくすのが愛情だろうか。

こうなったら私は2本ともボロボロになるまで使うしかなく、雪山も止めるに止められない。

 「死んだらやるわ」と父は話している。

山屋の魂。父は山に登らなくなっても死ぬまでは手元に置くらしい。

時間どろぼう

忙しくてなかなか山に行けない。

山に行けないと精神的に問題が出るばかりでなく、肉体的にも大きな問題が生じる。早い話が、身体や感性が鈍って危険な目に遭いやすくなるわけで、先日も八ヶ岳で軽く冬山を体験するつもりが、指先を凍傷にしてしまった。このまま仕事に時間を取られると、職場より先に山で危地に追い込まれないとも限らない。その前に山を止めろという意見もあろうけど。

それにしてもなぜこんなに時間がないのだろう。

 

「時間がない。時間がない」と呟いていて思い出すのが、ミヒャエル・エンデの『モモ』である。あまりに有名な作品なのと、ミヒャエル・エンデに関する蘊蓄を私は持ち合わせていないので、ここでは深く触れない。ただ、時間を「時間どろぼう」が葉巻にするのに盗んでいるなら非常にわかりやすい。時間どろぼうの方でも甕に詰めて床下にしまったり、定期預金にしたりせずに煙にしてしまったのだから、みんな時間が不足していくわけだ。現実は自分の時間は自分のもののはずなのにいつのまにかふわふわ消えているからタチが悪い。

一体どこに時間どろぼうがいるのか。

 

時間を奪う人間には2種類いる。

一つは文字通り他人の時間を取る人間。落語「化けのの使い」に登場するご隠居なんかがその類だ。知らない人のために紹介すると、江戸の町に当時の職業斡旋所、口入屋で悪評の立つご隠居がいた。とにかく人使いが荒く、雇った使用人は使わないと損とばかりに、掃除・選択・炊事・使いにと使う。使用人が次々に辞める中で、ある使用人が粘り強く仕えるが、その使用人も主が化け物の出るという噂のある屋敷に引っ越すという話を聞いて辞めてしまう。話は化け物とご隠居に移り、下げへと向かう。

この中で、粘り強い使用人・権助がご隠居に訴える場面がある。

「なぁ、旦那様。おら、ずーっと思ってただ。あんたは人使いが荒いんではなく、無駄が多いんだ。

『おーい、権助。大根買って来い』って言って、帰ったら

『おーい、権助。味噌買って来い』っ言う。

『おーい、権助。大根と味噌買って来い』と一度で言えばいいだ」

人使いが荒いより無駄の多い指示の方が精神的に応えるという例。他人の時間をいたずらに奪ってすましているというのは古今を問わず嫌われるだけでなく大いなる害悪となる。

 

一方で、時間をむやみに差し出してしまう人がいる。

他人の時間を取る人間はわかりやすく嫌われるが、差し戻す人間はむしろ重宝がられてしまう。なにしろ「これをやれ!」と指示すれば、時間を気にすることなくやり遂げてしまうのだから、とにかく便利だ。先の権助のようなタイプである。

時間を差し出している当人はそれでもよい。人のために自分の人生の貴重な時間を差し出すことを生きがいにしているのだから。問題はその価値観を周囲に蔓延させることである。特に「俺が若手だったころは忙しくなると徹夜が当たり前だった」とか「近頃の若いもんは」と言う輩がいると危険だ。「俺も時間を差し出したのだから、お前も差し出せ」となる。

他人に強制しなくても、早朝深夜まで働く人が周囲にいると、無制限に時間を投入する風土が生まれてしまう。案外、他人の時間を取る人間より質が悪いかもしれない。

 

「山で凍傷になりました」と会社で報告すると「また怪我するのになんで山なんか行くか」という顔をされた。先月もマラソンで爪がはがれて足を引きずっていたばかりだ。別に言わなくてよさそうなものだが、ここ2週間キーボードを打つのに支障をきたしているので、言わざるを得なかったのだ。

なんで行くかと訊かれると、答えはいくつもある。ただ、一つの答えとしては「誰に頼まれたわけでもないから」となる。つまり、時間を盗まれないで過ごせるから独りで山に入るのである。

エナジードリンク

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突然だが、これが何かわかるだろうか?

スターバックスのコーヒーなのはすぐわかる。しかも500ml缶で日本では見かけない。これはカナダで買った。その名も"STARBUCKS DOUBLE SHOT ENERGY*COFFEE"。

スターバックスエナジードリンクらしい。「らしい」とははっきりしない表現だ。なぜそんな表現になるかと言えば、飲んだけどエナジーになったのかわからないから。缶のどこかに効能が書いてあるかと思って読んでみたが、栄養価しか書いてない。カナダは英語とフランス語が公用語なので、他国と比べて記載内容は文字数の半分しかない。

栄養価を見てみると、ビタミンがなんだか多い。なんでコーヒーでビタミンを取らにゃならんのかさっぱりわからん。しかもお値段も3CD(カナダドル)以上だから300円くらいして、ビールを買うのと変わらない。さて、味の方は一言「甘い」。エナジーとは砂糖のことかと思ってしまう。

よくわからんぞ、カナダ。というかスタバならアメリカ発なのかもしれんが。

 

有名なエナジードリンクと言えばRed Bullだろう。ただ、そのRed Bull誕生のきっかけが大正製薬リポビタンDだったことはあまり知られていない(私もテレビ番組で初めて知った)。全世界なエナジードリンクのブームは実は日本発だったと言うことができる。Red Bullが登場した当時、栄養ドリンクらしきものはあまりなかったようで、発売するや大ヒットし、今や本家を上回る売り上げを上げている。

カナダでは日本のようなチビ缶ではなく、大きめの缶コーヒーのようなサイズで売られていた。缶が大きいのは体が大きいからだろうか。

 

 古今東西、健康マニアというのはたくさんいて、古代では秦の始皇帝が有名だ。不老不死の薬を求めて一説には水銀まで飲んでいたとされる。徐福という人物に宝物を持たせて東へ不老不死の薬を求めたのはあまりに有名だ。

徳川家康も健康マニアで、粗食と適度な運動を続けることで当時としては高齢の73歳まで生き、それによって豊臣氏を滅亡させるに至った。もし家康が太く短く不摂生に生きたら、大坂の陣で徳川政権は転覆したかもしれない。

 徳川家康が摂生によって寿命を伸ばすことに腐心したのに対して美食を追求したのは意外にも奥州の独眼竜・伊達政宗。徳川政権が基礎を固めていく中で、かつて天下に名を轟かせた武将はトイレでレシピを作っていた。別に『ズッコケ三人組』シリーズのハカセのように便座に常時座っていたわけではなく、そこはお殿様だから6畳間くらいの広い厠を作って中で書き物をしていたらしい。身体から出るものの隣で入るものを考えるのも不思議な気がする。晩年の肖像画はしもぶくれのふっくらとした顔になっていて、精悍さはやや影を潜めている。ただ、徳川家康が享年73歳だったのに対して伊達政宗も69歳だったことを考えると、食った方がよいのか控えた方がよいのかは判断が難しいところだ。

 

 現在、ドラッグストアには医師の処方箋の必要な薬から、市販薬、医薬部外品の健康食品が百花繚乱、パッケージの彩鮮やかに並んでいて、中でも「マムシ」とか書いてある栄養ドリンクを見ると何だか怖い。ただ、怖いのと同時にどのくらい効能があるのか気になったりはする。

20年くらい前に休日の夕方にやっていた真面目な報道番組で、某国家代表がオットセイ由来の精力剤を愛用していると報じていた。そして某国の事情に詳しいという評論家が神妙な顔をして

「これを飲むと暴れ出すくらい効果があります」

と言う。番組を進行するアナウンサーも

「はぁー」

と感心したように応えている。なんだか珍妙、滑稽。これがお昼のワイドショーならまだしも真面目な報道番組で、オットセイ由来の精力剤をスーツを着た男女が仏前に花を供えるような顔をして話しているのだ。精力剤を使うかどうかが世界を揺るがす重大事実なのだろうか。


国家を揺るがすことは全くない私のエナジードリンク事情はアミノ酸の粉末を飲むくらいだ。

2年前に100kmマラソンに出た時に初めて飲んだ。出発前に一袋、中間地点で一袋、終わってから一袋。もう終わってから両足とも痛くてアミノ酸の威力なんかはあったかもわからないのだけど、飲んだから完走できたかもわからず、今はマラソンの前には飲んでいる。

ちなみに登山の時は色々だ。飲んだから無事に帰れる保証をエナジードリンクは持ってはいない。 

心残り

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

と、とりあえず書いてみた。年賀状を書くこともないので、年始の挨拶で口にするばかりだが、何度言っても違和感がある。祖父が、一休宗純の「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という言葉を口ずさんでいたということもあり、定型句である「おめでとうございます」が素直に言えず、「今年もよろしくお願いします」ともごもごと済ませてしまう。 

これまで山と死について時折思いついて書きつけたものの、「死」について真剣に向き合えていないのが現状だ。そんな複雑な思いも相まって「おめでとうございます」と素直に言えないのかもしれない。

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有名なスティーブ・ジョブズスタンフォード大学でのスピーチで

“If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”(その日を自分の最後の日と思って生きていたら、いつかそのことがまさに正しいとわかる)

という言葉が出てきた。直訳するとわかりにくいが、今日が最後の日と思って後悔のないように生きよということだろう。

ではもし今日が最後となったらどのくらいの人が心残りなく死ねるだろうか。エネルギーに満ち溢れた人ほどいろいろなことをやっているので、死ぬときは未練なく死ぬかと思えばそうではない。栄華を極め、エネルギーが余っている人ほど余計に心残りができやすい。葛飾北斎が死の直前に「あと10年、いやあと5年生かしてくれれば真の絵描きになれただろうに」とつぶやいたと言われる。北斎は当時としては超高齢の80歳。天寿を全うしたと言ってもよいところだが、バイタリティーのあまり心残りが生じたというところだろう。死ぬまで追い求めるものがあるのは不幸なこととも言えるし、極めて幸福なこととも言える。

 

冬山に登ることを登らない人に話すと、「死んだらどーする!?」という趣旨の質問を受けることがある。登る人からすると「道を歩いていて車にはねられたらどーする!?」とか「酒を飲んで脳卒中になったらどーする!?」という質問と同等に感じられるのだが、質問する側にとってはそういうことではないらしい。そして最後に「山好きな人は山で死んだら本望でしょうね」と無理やり納得を付けることになる。

ただ、今度は登る側として納得できない。好きなことを死ぬのは誰かに殺されたりするより余程良くても、そりゃもうちょっと美味いものも食べたいし、行きたいところもまだまだある。何しろ山に行くくらい元気なのだ。

欲があるうちはどうしても心残りが出来る。しかし、欲が少な過ぎると人生がつまらなくなる。欲のアクセルとブレーキ操作が難しい。

 

落語「地獄八景」の出だし。

「あんたの心残りは若い嫁さんを残して死んだことか?」

「そんなことやおまへん。私の心残りは戸棚にしまった半身の鯖。どうせ死ぬんやったらみな食うて死んだらよかった」

これくらいサッパリした心残りで死ねたら一番いいのかもしれない。

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大人の嗜み

せっかくの年末年始休みに入ったのに、今年は親戚廻りに忙殺されて山に行けそうにない。

なんだか悔しいので日帰りでパパッと雲取山を往復してきた。年末最終出勤日に納会さえなければ翌朝発で八ヶ岳甲斐駒ヶ岳に行けたので、今は親戚廻りより納会が憎い。


この納会というやつは会社恒例の行事で、従来は出前の寿司に缶ビールくらいを会議室で楽しむというくらいのものだった。ところが数年前から寿司に加えて鰹のタタキや焼豚やら、焼酎、ワイン、日本酒が加わってやたらと派手な様相を呈し始めた。飲み物、食べ物が豪華になるなら結構ではないかというご意見もあろうが、さにあらず。社員だけでなく取引先の人にも解放したことで、準備も片付けもグレードアップした。さらに今年に至っては社内と社外の割合が拮抗してしまい、下働きをする社員はひたすらサービスばかりしていて、もはや社員の慰労のためにやっているのか取引先接待のためかわからない。


そんな愚痴はさておき、会が終わり、酒を注いだり水割りを作ったりしていた私の持ち場の近くで今年新任の役員と来年30になる後輩が雑談を始めた。テーマは腕時計についてである。その役員が言うには夫婦で持つ腕時計のメーカーは揃えた方が良いらしい。あと買う時は銀座あたりの直営店に行くべきだと。断じてドン・キホーテとかAmazonで探してはならない。まあ他の一流企業でも役員をやっていた人は言うことが違う。

ただ、その後の話がなかなか興味深かったので紹介したい。


その役員は最初、某一流商社に勤めており、時々ニューヨーク出張なんかがあったそうだ。そしてニューヨーク出張の楽しみに目抜き通りにある腕時計のブランド店(聞いたけど忘れた)に行っていたらしい。

銀座もそうだが、ニューヨークのその店も入口にはスーツを着た体格の良いガードマンがおり、扉に近づくとさっと開いてくれる。ガードマンとはいえ、ブランド物の40万円くらいするスーツを着ているらしい。

次に店内に入るや店員が駆け寄り、「何をお探しでしょうか?」と尋ねてくる。そんな時は慌てず騒がず「ビジネス用を」とか適当に答えるとあれやこれや色々な種類を見せてくれる。ただ、おいそれとは買えない。数十万円はする代物ばかりなのだ。

ただ、「うーむ」とだけ言っているとただの冷やかしになってしまうので、頃合いを見てこう言う。

「どうも気に入ったものがないな。代わりに友人の餞別用のボールペンを見せてくれないか?」

今度はボールペンを見るわけで、ボールペンと言えども3万円くらいする。結局ボールペンだけ買って店を後にするわけだが、店の前まで店員が商品を捧げ持ってついてくるのがなんとも気持ちがいいものらしい。


その話を聞いた私は心中「うーむ」と唸ってしまった。早い話が全然共感できなかったと同時に、そのようなことに重きを置く価値観があるのだなあと思ったわけである。まさに大人の嗜み。

私なんぞは夏は沢遊びができて冬は雪の稜線を歩けたら満足で、これは子どもの探検ごっこの延長みたいなもので、子どもの嗜み。単に幼稚なだけと言える。

ただ、この「大人の嗜み」と「子どもの嗜み」の違いに何があるかといえば金がかかるかかからないかで、発想の次元は変わらない気もする。前者はちょっと威張りたいだけで、後者はごっこ遊びの延長だ。どちらが高次でどちらが低次というわけではないだろう。

そう、大人の嗜みの方が高尚というわけではない。嗜みの方向性が違うだけなのだ。