クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

憧れのホテルライフは満喫できるか

久方ぶりにホテルに泊まった。

泊ったのは普通のビジネスホテルで、シングルルーム禁煙。しかも仕事の事情。翌日も早朝から仕事なのだ。

ただ、時々家の外で寝るのも悪くはない。シャワーを浴びたら、パンツ一丁になり、いつもより大きいベッドでとりあえず大の字に手足を伸ばしてみた。

 

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結局泊まらなかった奈良ホテル

淀川長治は晩年ホテル暮らしだったそうだ。すなわちホテルが日常の家なので、万一死んだときに棺桶が出せるエレベーターが設置されていることを確認して泊まっていたという。

ホテルで生活するというのはどういう気分だろうか。金かかりそうなんていう下世話な話は置いておいて掃除をしなくていいのは楽そうだ。

その一方で自分の部屋であって自分の部屋ではないという気持ちの悪さもある。いくら鍵をかけているといはいえ、不在時には掃除にも入るし、自分の好きなレイアウトに変えるわけにもいかない。

本来、ホテルは臨時の生活スペースとなっている。それを普段使いするにはいろいろ不便があるだろう。

 

自慢じゃないが、私はビジネスホテルと夜行バスについてはベテランである。逆に高級ホテルと飛行機のビジネスクラスには縁がない。

旅行先では日中遊びまくり、夜は地元の居酒屋かなんかで地魚をつつき、ホテルは寝るだけなのだ。出張でもおおよそ同じことになるので、ホテルは寝るだけ。清潔で風呂が入れれば問題はない。ホテルに戻るのはどうせ夜なので、景色も関係ないし。

そんな私とって、とりあえず揃っているビジネスホテルは面白くもないが、外れもないという安心の宿泊場所なのである。

 

 そのビジネスホテルで最もよかったのはどれか。

ポイントをまとめてみると

①大浴場がある。

②部屋が広い。

③読み物、書き物ができるテーブルがある。

④朝食が美味い。

⑤駅が近く、周辺にいろいろある。

去年の9月に泊ったJR奈良駅近くのスーパーホテルは大浴場があった。朝食は中止していたのでどんなものかわからない。

2月に高知龍馬マラソンの時の泊ったホテルはビジネスよりちょっとゴージャスだったので、朝食が素晴らしかった。なんと鰹のたたきが出るのである。まあお値段も繁忙期とはいえ18,000円くらいしたので当然か。

広い部屋に泊るには民宿の方がいいかもしれない。10年以上前に伊豆高原で泊った時は、ゴールデンウイークにもかかわらず、夕食付で7,000円。畳の部屋なので1人だとやけに広く感じる。このあたり和室の優位性だ。

振り返ると安宿は期待感がないだけにどこもそれなりに楽しかった。

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最高のホテルはテントかも

 さて、今回は都内のホテルに泊まったわけだが、疲れていたのであっという間に寝てしまった。

ホテルライフを楽しむにはまず疲れていてはいけないのである。そして非日常を楽しむのがやはりホテルの楽しみなのだ。

コロナにまつわる無言喜劇

昨年からコロナ、コロナ一色だが、コロナ絡みで小話を一つ。

職場で感染者が出た。大騒ぎというほどのことはないのだが、周囲の人をPCR検査の対象にしたり、大変である。みんな感染者と接触があったか記憶を辿っていた。

 

その中で1人、数日前に言葉を交わしたという50くらいのオジサンがいた。

そのオジサン、Hさんは感染した人と特に仲がいいわけではない。別に一緒に飲みに行ったわけでもないし、その時の会話も内容は社交辞令的でマスク越しにしか話していない。移るわけがない。それにもっと密接して話している人はたくさんいる。

ところがこのHさん

「いやあ、これは移ったかもしれない。他の人に移すかもしれないから検査の結果が出るまでしゃべりません」

と言い始めた。

仕事熱心で知られる人なので、普段仕事の話をなると口角泡を飛ばす勢いで話す人が急に黙り込んだ。ところが仕事はやはりするし、話さないと不便。私も伝えることがたくさんある。

私はお構いなしに席まで行き、話しかける。するとHさん、わかったというように大きくうなづき、指でOKサインを出す。

本当にしゃべらないらしい。

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Hさんは乗り鉄だったりする

そのうち、Hさんがボスに話さないといけないことがあった。

どうするのかと見ていたら、紙を持ち出しそれを示している。

「なになに。はあ」

Hさんより若いボスは笑いながら返している。

 

しかし、コロナの感染者が出たことで私たちも思わぬしわ寄せを受けていた。明日は唐突に全員在宅勤務だという。今日中に終わらせないといけない業務が急に増えてしまった。

私はもうお構いなしにHさんに話しかける。

Hさんはもともとおしゃべりな人である。「しゃべらない」宣言しても反応して声が出る。私がこれはこうでと説明しているとHさんが紙に何か書き始めた。

何かと覗き込むとこう書いてあった。

「しゃべらせないで下さい」

社会不適合者の人生交差点

「いい加減山でも行きたいなあ」と考えるものの梅雨本番になってしまった。

3ヶ月くらい週休1日になっている。収入があるのはいいことだけど、忙し過ぎるのも考えものだ。

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のんびりハイキングがしたい



吉玉サキ『小屋ガールの癒されない日々』を読んだ。就職してもうまくいかず、山小屋スタッフとなった筆者が10年にわたる「小屋ガール」としての日々を回想した本である。

山小屋は下界から隔絶された閉鎖された空間だから、そこには山小屋の社会があり、山小屋のルールがある。「社会不適合者」と自らを卑下していた筆者が山小屋で出会った様々な人たちとその関係がテーマとなっている。

 

 

この社会不適合者とは何だろうか。その一方で社会に適合することとは何だろうと思う。

「世の中に必要ない人はいない!」

と言うのは綺麗事で、企業は応募の中から選別して採用している。

これは企業に限った話ではなく、

「あの人は恋愛対象としてはないよねぇ」

というのも自分にとって必要かどうかという選別の中で起きる。

世の中は不平等なのだ。そして弱者や選ばれにくい人というのはどうしても存在する。何度も何度も選ばれない、うまく仕事をこなせないということが続くとこの社会全体から否定してしまう。

筆者は多くの人にとって非日常である山小屋を日常とすることで、下界の社会から距離を置いた。作中に出てくる山小屋は下界の社会から飛び出したい人々の人生交差点となっているようだ。

 

私が今忙しいのは肯定的に見れば社会に適合し、必要とされているからと考えれる。

ただ、突然エスキモーの社会に行けば近視で獲物は発見できないし、ITベンチャー企業に行けばプログラミングもできず、アイドルオーディションには絶対受からない。「社会」と言ってもどれもあまりに小さく、必要とされる能力や要素は違う。

学校に通い、就職して職場を往復していると、周囲はますます均質化された価値観で塗りつぶされているので、それが「社会」全般と勘違いしてしまう。多様性を謳いながらもみんなその価値観から逸れることを極度に恐れ、社会に「適合」しようとする。

ただ、社会不適合と思い込んでしまうのは所詮、「社会」の見方が小さすぎるのかもしれない。山小屋のような小さなコミュニティでは、互いに持ち寄った「社会」が明確に認識でき、自らの視野狭窄に気づきやすくなるものなのだろう。

 

私も社会不適合者だと感じた暁にはまた山に登ろうと思う。

音楽を買うということ

ついにオーディオを買った。

私は平気なのだが、相方は音楽が聴けないのが苦痛だと言う。

仕方ない。最近は食費以外に何も贅沢していないし、残っていたポイントを全部叩いてJVC KENWOODのウッドコーンを購入しようと相成ったわけである。

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 ウッドコーンに決めた経緯は過去に書いた。

小さい躯体ながら、最も音の広がりが良かった。お値段は税込5万円くらいとお高めだが、本格的な音響マニアからするとお子ちゃまらしい。『オーディオの作法』という本を見ると、マニア入門で30万円から100万円。わけがわからん。

まあ、音響マニアからすれば冬用のハードシェルに5万円でもわけがわからんだろうからお互い様だが、こうなると5万円のオーディオでも安かった気になるから不思議だ。

音楽というものは高価らしい。

yachanman.hatenablog.com

 十代で音楽の嫌いな子はいないと聞いたことがある。教育学の教授が言っていたのだから、何かしらの根拠があるのだろう。

確かに私も十代の後半から音楽を聴き始めた。高尚にクラシックでも、カッコつけて洋楽でもなく、普通にJポップ。B'zとかスピッツとかその範囲である。

今から思うと、あの頃の感受性は何だったのかと思う。大した音響機器でなくとも盛り上がった。使っていたはSONYのラジカセで、当然バスも付いていないし、細かい音も再現しない。それでもかければ心が躍るし、今でもその頃聞いた歌は口ずさめる。

有り余る想像力と感性が音質を補っていたものと思われる。

 

さて、購入したウッドコーンだが、低音と高音が小さなスピーカーから一緒に出る。

部屋が小さいので、前に座って聴くとちょうどいい。相方は「音がひたすらまろやか」という評で、完全に満足しているわけではないようだ。

しかし、これで豊かな時間を作れるなら、買った価値があるというもの。今はずっと土曜も勤務で時間の方がないので、時間をなんとか取り戻したい。

家庭菜園の行く先は・・・

今、我が家にはプランターが4つもある。

これは私ではなく相方の仕業で、我が家のわずかな屋外であるベランダの隅に置かれている。あまりマイホームとか、定住生活に興味のない我々だが、野菜を取って食べるのには興味がある。

私は食べられない花とかには興味はないのが相方には歯がゆいらしいが。


それはともかく。まずはこれ。

バジルさん。

昔、私もコーヒーカップほどの器でバジルを育てた。葉っぱが生えて、そろそろ食いごろかなと思っていたらたちまち枯れてしまった。

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そこそこの広さがあればにょきにょき生えるようだ。

プランターだと葉のサイズは3、4センチが限界っぽい。


次は大葉さん。

これまたバジル同様賑やかに。薬味、ハーブ系は見た目は雑草っぽい。

ベランダだとそれほど虫にたかられないので、無農薬で食べられる。

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あとこれ。

まだ実が付いていないので何だかわからないけど、トマトである。

これは会社の人からもらった。

その人が言うには、

「実が落ちてそこからまた苗が生えてきて処理に困ってるんです」

とのこと。

ベランダでそんな生命の循環ができるのだろうか。

まあトマトができたらバジルと大葉を使ってスパゲティ・ポモドーロを作りたい。

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ビールのおいしいシチュエーションについて

緊急事態宣言、蔓延防止措置。去年はひたすらに自粛ムードだったのが、1年を経て耐えられなくなったのだろう。今日も電車は満員だった。

今年のコロナ対策はひたすら飲酒に向かった感がある。コロナに対する人々の恐怖心が薄れ、官の言うことを聞かなくなったところで、「酒」をターゲットにしているようだ。

 

そんな暗い話はさておき。

酒飲みの私はここのところ家飲みばかりなのだが、外で飲む酒はそれはそれはうまい。山の絶景を見ながらなら、普段の半分の量で倍おいしい。

そんな山で飲む酒、特にビールについて考察してみたい。

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いわて銀河100km後の1杯

山でビールを初めて飲んだのは冬の八ヶ岳

山で出会って意気投合した友人と硫黄岳に登った時で、それまで山ではストイックに禁酒を貫いてきたのに、「まずは1杯ですね」と言われてあっさりポリシーを捨ててしまった。

赤岳鉱泉で飲んだビールを皮切りに、自制心がなくなった。

「山でビール飲んでいいんだ。それが大人なんだ」

となったわけである。

 

翌年の9月、早月尾根から剱岳に登った。

この時のメンバーは、先の友人(男)と女友達。酒飲みがそろったので、早月小屋でプシュッ。

2日目に剱岳に登頂。剱沢小屋でプシュッ。

3日目は室堂で風呂に入り、黒部アルペンルートで黒四ダムにてさらにプシュッ。信濃大町駅からあずさ号に乗りこんで最後のプシュッ。

終始飲みっぱなし。疲れているので、1回につき缶ビール1本という健全(?)な飲んだくれ登山ができた。

とにかく過度に飲まないことが重要である。

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大混雑の早月小屋

山好きに悪い人はいないという。これは音楽好き、自転車好き、将棋好きなどなんでも当てはまっていて、というか同好の者とはとにかく仲がいいのだ。

そういう同好の士からビールを奢ってもらったりしたらまたうまい。

今から6年ほど前、熊野古道小辺路に行った。熊野古道は鬱蒼とした森や固い石畳、集落内を歩くので、展望はないし、楽しいかは微妙なところ。

その途中で、小屋があり、おばあさんが作業をしている。

「コーヒー飲むか?」

と通りがかりの私は訊かれた。80kmを2日半で踏破する予定だったので、時間はタイトだったものの、好意は受けるべきかと思って小屋に招き入れられた。

謎のおばあさんは、その小屋を自力で建てて、そこを熊野古道を行くハイカーに無料で開放している。幼き日から山の中の家に住んでいたから、とんでもなく足腰が強いらしい。小屋の材木、鉄製ストーブは人力で担いで来たという。

おばあさんの話をひとしきり聞き、そろそろお暇と思ったら、おばあさんが言った。

「ビール持って行くか?」

軽量化のため、38Lパックにツエルト泊。酒は控えていたところで、思わぬプレゼントをありがたく頂戴した。おばあさんの好意のビールはその晩、ツエルトビバークでおいしくいただいた。

展望のないテント場だったが、好意の味がした。

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ビールをもらった熊野古道

山でのビールについて書き出したらキリがないので、まあ今回はこれくらいで。

梅雨が明けたら、展望が良くて、風が気持ちいい山にビールを持って行きたい。

必ず成功することを続けてはいけない~石川直樹『最後の冒険家』を読む

石川直樹『最後の冒険家』を読んだ。

昨年、近所で石川さんの講演があって聞きに行った。話もさることながら、聴講者の質問がしっかりしている。誰もトンチンカンな質問はしない。テーマは読書と旅にまつわる話で、みんな一様に本が好きという人が揃っているらしい。

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『最後の冒険家』はその石川さんの処女作。開高健ノンフィクション賞の受賞作で、熱気球冒険家の神田道夫をテーマとしている。

私は熱気球に興味を持ったことはなかった。

登山や自転車、カヌーなどの人力移動ではなく、熱気球はLPガスボンベで上昇する。スノーモービルで北極点に行くのと、犬ぞりで行くこと。モーターボートで太平洋を横断することと、ヨットで行くこと。

動力を使うか、人力や風、動物の力を借りて移動するのかで、何かが違う気がしていた。はっきり言ってしまえば動力を使うと冒険ではないと思っていた。

熱気球はその中間にある。化石燃料を燃やして上昇し、気流を使って移動する。ただ、飛行機でも行ける上空を熱気球で移動することにどのような意義があるのかさっぱりわからなかった。

 

読んでみてわかったのは、とにかく熱気球は繊細で過酷で、失敗が付きものであることだ。

登山、特にアルパインライミングでは失敗は死につながることが多い。その意味では失敗できないし、撤退は「敗退」とも表現されるが、生還できれば失敗ではないとも言える。

しかし、熱気球は空での話だし、洋上や山中に落ちたらそれだけで死につながる。登山のようにロープを使って懸垂下降で降りるわけにいかない。おまけに比べ物にならないくらい多額の費用が必要だ。

危なくて失敗が多くて、失敗が死につながるという意味ではほとんど人が真似をしないだろう。本書はその空の冒険を追求し続けた冒険家の物語である。

 

 

思うに社会の大半は成功することの繰り返しで動いている。電車が発車の度に失敗していたら都市は機能しない。成功の確率を高めることが大多数の人間の務めとなっている。

神田道夫給食センターの所長だったというから、給食作りで失敗するわけにいかない。ただ、冒険家はそこを抜けだして失敗ばかりの空に飛びだした。

角幡唯介さんは「グッバイ・バルーン」というエッセイで、神田道夫冒険者の業に嵌ったのではないかと書いていた。その業というのは定義が難しいが、私には失敗すれば燃え上がる闘争心というか、挑まずにいられない気持ちのように思える。

そしてその闘争心こそが社会全体を進歩させてきたのは歴史が証明している。

 

巻末の言葉が印象的だった。

「絶対に成功するとわかっていたら、それは冒険じゃない。でも、成功する確信がなければ出発しない」

これは人生にも言えることかもしれない。